神殿の終わり
イエスはエルサレムの神殿について、このように予告しました。
「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」(6節)
これはつまり、神殿の石が跡形もなく崩れ去り、神殿が完全に崩壊する時が来るということです。
当時のエルサレム神殿というのは、ユダヤを治めていたヘロデ王によって建築されていたものです。
ヘロデは、人々の支持を集めるために、80年もの歳月をかけて、当時の神殿を全面金箔貼りで覆い、白い大理石を贅沢に用いて、豪華絢爛な神殿へと改築しました。
そんな神殿を見ながら、おそらく誰もそれが崩されることなど考えなかったと思いますが、この予告からおよそ40年後に、キリストの予告通りに、エルサレム神殿は侵略してきたローマ軍によって破壊されてしまいました。
目に見えるもの、形あるものは、時が経てば、いつか役目を終えたり、消えてなくなったりします。
これはつまり、人間が築くものには必ず終わりがあるということです。
エルサレム神殿の終わりについて予告した後、キリストはさらに、この世の終わりについて語っていきます。
未来を知りたい人間
神殿が崩壊するという予告を聞いた人々は、キリストにこう尋ねました。
「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」(7節)
人々の関心は、それがいつ起こるのか、その前兆となるしるしはどんなものなのかにありました。
そのように、人間は未来について強い関心を持っています。
未来がどうなるのか知りたいという願望があるからこそ、時代や場所を超えて、占いというものが存在し、人気を博しています。
聖書から未来を予告するYouTubeの動画なども散見されますが、聖書で未来について語られている箇所は、単に未来に何が起こるのかを教えるためのものではありません。
聖書は未来を知ることよりも、もっと大事なことがあると言っています。
終わりが来る
未来に関心を寄せる人々に対して、キリストはこう答えました。
イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。9戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」(8-9節)
聖書は確かに「世界には終わりがある」と言っています。
キリストは、終わりの時、イエスの名を名乗る多くの偽キリストが現れて、時やしるしについて語ることがあるが、彼らについて行ったり、惑わされたりしてはならないと警告しています。
また、世の終わりには戦争や暴動が起こるが、それを世の終わりのしるしだと考えて、怯えてもならないとも言っています。
これらの言葉が意味しているのは、本当に大事なことは、いつ何が起こるのか、すなわち、未来を知っておくことではないということです。
大切なことは、この先何かが起こった時、私たちがそこでどう生きているのかという、私たち自身のあり方です。
惑わされたり、怯えたりすることのないように、未来につながる「今」という時をどう生きているのかということが、本質的に問われていることなのです。
聖書はキリストが再臨する時、この世界に終わりが来ることを予告しています。
普通、「終わり」という言葉を聞くと、破滅とか絶望といったものをイメージするかもしれませんが、聖書が言う終わりは「完成」という意味での終わりです。
昨今の世界は、コロナによるパンデミックや第三次世界大戦の兆しもちらついている不安定な世界に見えます。
しかし、聖書は世界は破滅に向かっているのではなく、完成に向かっていると言っています。
そうだとしたら、今の世界は神様が完成という終わりに向けて、回復してくださっている途上にある世界だということになります。
このことから、私たちに向けられている重要な問いかけが浮かんできます。
「神様が回復しておられる世界にあって、今どのように生きるべきなのか?」
未来を知ることは、今という大切な時を生きるためのものです。