牧師ブログ

「欲望の種」

聖書の中で、特に衝撃的なスキャンダルと言えば、ダビデの話だろう。
部下の妻と不倫に陥り、さらに、子供ができたことが発覚すると、あらゆる隠蔽工作を働き、最終的には、不倫相手の夫を戦死させるにまで至ってしまった。

なぜダビデは、殺人にまで手を染めてしまったのか?
ダビデを突き動かした欲望は、私たちにどのように働きかけているのだろうか?

理性と合法性の中で

ダビデが罪を犯したその日、イスラエルは戦争の真っ最中だった。
ダビデは常に民の先頭に立って戦ってきたが、この時は戦いをかなり優位に進めていたので、ダビデ自身は戦場に行くことなく、エルサレムの王宮に留まっていた。

昼寝から起きて屋上を散歩していると、ダビデの目に水浴びをしている一人の女性の姿が目に入った。
ダビデは召使いを送って、その女性の身分を確かめさせると、彼女はバトシェバという人で、ダビデの部下であるウリヤという戦士の妻であることがわかった。
ダビデはそれを知った上で、バトシェバを王宮に招くため、再び彼女のところに召使いを送った。
そして、そのまま彼女と性的な関係を持ってしまった。

そうすると、なんと彼女が身ごもったことが発覚したのである。
それでダビデは、自分が彼女と関係を持ったことがバレるのを恐れ、隠蔽工作を図った。
初めの手段は、バトシェバが身ごもった子供が、夫ウリヤとの間にできた子供に見せかけることである。

ダビデは戦場にいたウリヤをエルサレムに呼び戻して、家に帰るように促した。
しかし、なかなかウリヤが家に帰ろうとしないので、最終的に、ウリヤを戦いの最前線に送り出して、戦死させるように部下に命令した。
その結果、ダビデの狙い通りに、ウリヤは敵の手によって殺されることとなった。

ダビデは一つの罪を隠すために、次から次へと罪を重ねていったが、一連の行動を見ると、ダビデは最後まで理性的に、かつ合法的に事を進めていることがわかる。
一般的に罪というのは、感情に流されてやってしまうイメージがあるかもしれないが、ダビデの罪は、理性と合法性の中で犯されたものである。

むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(ヤコブの手紙1:14-15)

ダビデの中に生じた欲望という種が、王としての権力を傘に、理性と合法性を栄養分にしながら、最後には死をもたらしてしまった。
欲望の種は、初めは小さなものに見えても、成長力があり、死を生み出すほどの破壊力がある。

欲望の正体

それでは、私たちと欲望とは、どのような関係性にあるのだろうか?
欲望というのは、人間の行動の原動力であり、私たちは何をするにも「〜したい」「〜しよう」という欲望や欲求に突き動かされている。
いつも清い欲望ばかりならいいが「盗みたい」「殺したい」など、罪からくる欲望もたくさんある。
どういう欲望であれ、人間は朝から晩まで、何かしらの欲望に左右されながら生きていると言えよう。

クリスチャンというのは、十字架の血潮によって罪赦され、罪の支配からは自由にされた。
たとえ罪を犯すことがあっても、キリストに立ち返り、罪を悔い改めるならば赦される。
もはや、罪がキリストの救いを受けた者たちを支配することはできない。

罪から自由にされたことは確かだが、ただ「罪への欲望」や「罪への誘惑」から、完全に自由になったわけではない。
欲望や誘惑から完全に自由になるのは、キリストの再臨によって、神の国が完成する時を待たなければならない。

だから大切なことは、たとえ心の中に欲望の種が生まれたとしても、それを成長させないことである。
言い換えれば、欲望に自分の身を明け渡さないこと、支配させないことである。

ダビデの心に「あの人キレイやなぁ」「あの子と寝たいなぁ」という欲望が生じた時、ダビデは完全にそれに支配されてしまった。
そして、その欲望はダビデが持っている権力や理性、合法性というものもすべて飲み込んで、一人の人間の死まで突き進んでいった。
つまり、ダビデは欲望の奴隷となり、自分でもわからないうちに神様という主人から離れ、奴隷という主人に服従してしまったのである。

何に満たされているのか

私たちの誰もが、誘惑や欲望から自由でないことは、キリストを見ればわかる。
キリストは公生涯の始まりに、聖霊によって荒れ野に導かれ、サタンから誘惑を受けた。
そこで四十日四十夜、断食をしたが、サタンが動き出したのは、四十日の断食が終わった後、キリストが空腹を感じられた時である。
サタンは、そういう人間の弱さに付け入って、私たちを罪へと誘惑してくる。

つまり、サタンは私たちが肉体的に、精神的に余裕がない時に、特に付け入ってくる。
ストレスが溜まっている時、不安や心配に取り憑かれている時、肉体が疲労困憊の時、そういう余裕がない時に、私たちは自分の身を何かに支配されやすい。

また、それとは反対に、むしろ余裕がある時もサタンの狙い目である。
ダビデの場合も、昼寝から起きて、おそらく一人で屋上を散歩している時に、バトシェバの裸姿を見て、誘惑された。
寝起きにふらふらっと何気なく歩いている時に、ダビデは欲望に駆られ、姦淫の罪を犯したのである。
私たちが一人でいる時、特に家に帰って何にも縛られない自由な時間を過ごしている時、こういう余裕がある時もサタンは狙っている。

結局は、余裕があってもなくても、サタンはいつも私たちを狙っているのである。
サタンは眠ることなく、24時間働き続けている。

だとすれば、欲望の種を成長させないために、欲望に支配されないためにはどうしたらよいだろうか?
それは、私たちの心が欲望に満たされる必要がないほどに、欲望ではない何かに満たされていることである。
それこそ、聖霊であり、聖霊によって与えられる神様の愛である。

酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、(エフェソの信徒への手紙5:18)

これは酒の問題だけではなく、欲望や怒り、憎しみなど、いろんな感情に置き換えて考えることができる。
怒りや憎しみに満たされる時、私たちはその奴隷となり、怒りや憎しみという主人の意のままに行動して、罪を犯すことになる。

しかし、もし、聖霊で満たされるとしたら、聖霊の支配の中で、聖霊の実り(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)を結ぶようになる。
聖霊で満たされ、神様の愛で満たされていることが、最大の防御であり、かつ最大の攻撃でもある。
サタンが一番嫌いで苦手な相手は、罪に敏感な人ではなく、神様で心がいっぱいになっている人なのである。