牧師ブログ

「イエスの更生プログラム」

19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネによる福音書20:19-21)

神は何を願っている?

私たちは日々、神様に対していろんな願いを抱きながら生きていると思いますが、反対に、神様が私たちに対してどんなことを願っているのでしょうか?
そもそも、何かを願っているのでしょうか?

この問いに対してどう答えるかは、一人一人が持っている神様観によって異なってきます。
もし今、心に浮かんだものが「〜しなさい」とか「〜してはならない」という命令であったとすれば、神様のことを「こちらに要求を突きつけてくる神」として認識していることになります。

確かに、聖書を見ると、キリストが弟子たちに直接語った言葉の中に「互いに愛し合いなさい」とか「恐れてはならない」というようなものがあります。
ただ、私たちの言動を統制するようなことが、神様の1番の願いだとしたら、結局は、キリストによる新しい律法に縛られて生きていくしかなくなってしまいます。

もちろんそういうことも、神様の願いではあると思いますが、私は根本的なところはもっと他にあると思っています。
それがまさに、復活後にキリストが十二弟子に向けて初めて語った「あなたがたに平安があるように」ということです。

「あなたがたに平安があるように」

キリストの死後、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、家の扉にかけて隠れていました。
師であるキリストが殺された今、今度はその矛先が自分たちに向かってくるのではないかと考えたからでしょう。

そこへ、復活したキリストが現れました。
実は、弟子たちにとって、キリストと再会することは手放しで喜べることではありませんでした。
なぜなら、これまで熱心に付き従ってきたキリストを裏切り、売り渡したのは弟子の一人であり、逮捕された後も、誰もキリストを救出するために動く者はいませんでした。
皆が逃げ回った結果、キリストは十字架にかけて殺されてしまったのです。

こう考えると、弟子たちが生き返ったキリストと出会うことは、とても恐ろしいことだったと言えます。
この時の弟子たちはユダヤ人から殺されるのではないかという恐怖感やキリストを失った喪失感、将来に対する絶望感など、精神的に極限状態にあったと思われます。
その最中、キリストは復活した体で、弟子たちの前に現れました。
そして、繰り返し言われました。

「あなたがたに平安があるように」

絶好のチャンスで…

この場面は、教育の場としては絶好の機会でした。
家の扉に隠れる弟子たちの姿には、彼らの失敗、弱さが見て取れます。
「恐れてはならないと言ったではないか!」
「しっかり信仰を持ちなさい!」
「なんであの時逃げていったんだ!」
「まさに、これがあなたたちの罪だ!」

このように、弟子たちの失敗と責任を追及しながら「悔い改めよ!」と迫ることもできたのです。
普通なら「あなたがたに平和があるように」ではなく、「あなたがたに裁きがあるように」と言いたくもなる場面です。
弟子たちを更生させる一世一代のチャンスでした。

しかし、キリストは彼らの過去を問いただすことはしませんでした。
弟子たちが失敗と挫折の中にあった時、キリストが彼らに願ったことは「平和」でした。
これは、他の日本語訳では「平安」とも訳されている言葉で、キリストは弟子たちが最も弱く惨めな状態にあった時、彼らの平安を願ったのです。

これこそ、神様が私たちに第一に願っていることではないでしょうか。
キリストは弟子たちに平和を与えるために、復活の体で彼らの前に現れました。
私たちが平和に生きることができるように、平安でいられるように、この世に生まれ、復活したのです。

「あなたがたに平安があるように。」