牧師ブログ

「ドラえもん信仰」の危険性(その2)

「心願成就」=「幸せ」ではないと言いましたが、キリスト教(聖書)は決して、自分の願いを持つことや、それを祈り求めることを否定しているわけではありません。
自分の心を無にし、煩悩を捨てて、ひたすら無欲で生きることが幸せだと主張したいわけではありません。

聖書には「求めなさい。そうすれば、与えられる。」という言葉があります。
クリスチャンも肉体の健康や病気の癒し、人間関係や将来の進路のことを考え、神さまに祈ります。
その願いが応えられれば、感謝もささげます。
基本的に何を願うとしても自由なのです。

ただし、聖書に描かれている神さまは、ドラえもんのような存在とは異なります。
のび太くんにとって自分の願いを何でも叶えてくれるドラえもんは「神」のような存在でしょう。
「絶対的守護神」のドラえもんがいなければ、のび太くんは生きていくことができないのです。

神の立場に登りつめたドラえもんは、のび太くんの願いに応えるためにポケットの中に手を伸ばします。
そして、数ある中から適材適所に道具を取り出します。

毎回突き放さずにのび太くんに手を差し伸べてあげるドラえもんですが、ここで問題なのは、その都度必ず道具を使って解決を図っているという点です。
そうすることによって、いつの間にかのび太くんにとってドラえもんというのは、問題から逃れるための「道具」になってしまったのです。
「道具の神さま」とでも言えばよいでしょうか…。

しかし、聖書が記している神さまは、自分の願いを何でもその通りにするための「道具」ではありません。
のび太くんは、この世の中で最も願いが叶えらえた人として、ギネス記録に認定されてもおかしくないレベルだと思いますが、皮肉なことにのび太くんは、自分の願いに必ず応えてくれるドラえもんゆえに、自身の自立を完全に妨げられてしまったのです!

(続く…)