牧師ブログ

「恵みチャレンジ」

「主があなたと共におられる」

マリアのもとに現れた天使ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と告げた。

「おめでとう」「恵まれた方」「主があなたと共におられる」
これらの言葉はすべて祝福の言葉であり、何か期待感を抱かせるような言葉である。
しかしマリアは、この言葉を聞いた時、ひどく胸騒ぎがして、これは一体何のことかと考え込んだ。

マリアの心に、これらの言葉はどのように響いていたのだろうか?
3つの言葉の中で特に注目したいのは「主があなたと共におられる」という言葉である。
「主があなたと共におられる」というのは、聖書の中で確かに約束されていることであり、クリスチャンであれば誰もが信じていることである。
これは誰の耳にもとても聞こえの良い言葉だが、マリアにとっては、少し異なるニュアンスがあったようである。

今の私たちが「主があなたと共におられる」という言葉を聞いて、これを感謝して受け止めることができるのは、キリストの存在ゆえである。
神の子であるキリストがこの世に来られた出来事は、神様が私たちと共にいてくださる方であることをよく表している。

しかし、マリアの時代はまだ、キリストが生まれる前であり、神様と言うと、共にいるという感覚よりも、天高く存在しているという認識が強かった。
そのため、当時のユダヤでは「主があなたと共におられる」という言葉は、今の時代のように素直に受け入れられるような言葉ではなかった。
よく言えば、マリアは神様に対する畏れの念をもって、この言葉を聞いていたのである。

キリストがすでに来られた今の時代、「主が共におられる」という言葉をどのように聞いているだろうか?
神様が私たちと共にいるということを、あまりにも当たり前に受け止め過ぎて、神様への畏れが薄くなっていることはないだろうか?
本来、罪人である人間にとって、神様が共におられることはとても危険なことである。
なぜなら、人間の罪は、神様によって正しく裁かれなければならないからである。

しかし、今私たちが、神様が共にいることを喜べるのは、キリストという尊い犠牲が払われたからである。
私たちは「主が共におられる」ということを、もう一度、神様への畏れをもって敬虔に受け止めるべきである。

「あなたは神から恵みをいただいた」

 天使ガブリエルは、マリアが救い主を身ごもることについて、「あなたは神から恵みをいただいた」と告げた。
天使は、神様がマリアの身を通して、旧約聖書で預言されていた救い主をこの世に与えるという計画を告げたのである。

しかし、マリアにとって、今の自分が「救い主を身ごもる」ことには、大きなリスクがあった。
一つは、マリアはまだ結婚前の処女であり、婚約中の身だったことである。
ユダヤの社会では、もし、結婚前に性的な関係を持った場合、それは律法によって姦淫の罪に定められる。
姦淫は、男女ともに石打ちの刑によって処刑されなければならないほど、重い罪だった。

そのため、マリアが子供を身ごったことが周囲に知れ渡れば、マリアの身は危険に晒されるに違いなかった。
「聖霊によって身ごもったなんてことを誰が信じてくれるのか」
「婚約相手のヨセフとの関係はどうなるのか」
「一生涯、不浄の女というレッテルを貼られて生きていかなければならないのではないか」
こういういろんな思いが、マリアの心を駆け巡ったはずである。

また、身ごもる子供が旧約聖書で預言されていた救い主であるということも、マリアにとっては大きなリスクがあった。
「救い主を身ごもる」ということは、個人の領域を超えて、イスラエルの国全体に関わる出来事であった。
そのため、救い主を身ごもるということは、単に自分の子供を身ごもることとは異なり、イスラエルの救いがかかった大きな責任とプレッシャーが伴う出来事だった。

天使は、救い主を身ごもることを神の恵みとしてマリアに告げたが、婚約中の処女マリアにとって、それは恵みでも何でもなく、むしろ超絶リスキーなことだった。

「神にできないことは何一つない」

マリアが受けた神様の恵みは、神様からのチャレンジであった。
マリアはこのチャレンジをどのように受け止めたのか?

最終的に、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」と天使に答えた。
マリアは、救い主を身ごもるという神様の恵みを受け入れたのである。
マリアにとって、天使の言葉を受け入れることは、かなりリスキーな賭けであったが、何がマリアの心を動かしたのだろうか?

「神にできないことは何一つない。」(ルカによる福音書1:37)

マリアは、処女である自分が子供を身ごもることも、救い主を産み、育てることも、すべて神様が成し遂げられることとして受け入れたのである。
つまり、マリアはあらゆるリスクを承知の上で、自分の人生を神様に賭けたのである。

マリアが天使から告げられたことを、本当に神様の恵みとして体験したのは、キリストの復活を待たなければならなかった。
それまでの三十数年というのは、マリアにとって、ひたすら忍耐の期間であった。

神様の恵みというのは、すぐに望んでいる結果が出るようなものではない。
マリアのように、長い期間を経て、それが恵みだと確信できるようなこともある。

そうだとすれば、私たちは目の前の状況だけを見て、神様の恵みを判断してはならない。
「神様の恵み」というと、聞き心地の良い言葉だが、私が思っている恵みと神様が思っている恵みは、いつも完全に一致するわけではない。
こちら側にしたら、全く恵みとは思えないものもあったり、そもそも恵みだと気づかないこともある。

神様が与えてくださる恵みというのは、必ずしも、楽で平坦な道のことではない。
神様の恵みをいただく人生は、リスクを犯してでも、「神にできないことは何一つない」ことを信じて、神様の御心をこの地にあらわして生きていくことである。