「偉くなりたい」という思い
イエス様が弟子たちの前で、ご自身が苦しみを受けて、殺されることを三度目に打ち明けられた頃、弟子たちの思いは、イエス様とは全く異なるところに向けられていました。
一行がエルサレムに向かっている途中、十二弟子のうち、ヤコブとヨハネがイエス様にある願いを打ち明けます。
ヤコブとヨハネは、エルサレムに向かいながら、もうすぐイエス様がユダヤの王となる期待を膨らませていました。
それで二人は、イエス様がユダヤの王となった暁には、王であるイエス様に次ぐ地位を自分たちに与えてくださいと、イエス様に願い出たのです。
これを聞いていた他の十人の弟子たちは、腹を立て始めました。
ヤコブとヨハネが高い地位を得るために、自分たちを出し抜いて行動したからです。
本来、弟子たちというと、社会の中で偉くなること、評価を得ることを諦めて、イエス様に従う道を選んだ人々のはずです。
仕事を辞め、住み慣れた場所と家族から離れ、イエス様に従っていたのが、十二弟子でした。
しかし、そんな弟子たちでさえも、自分たちの中で誰がもっと偉いのか、弟子の間の序列に関心を抱いていました。
このように「偉くなりたい」という思いは、弟子たち共通の思いだったのです。
偉くなってはいけない?
それでは、イエス様は彼らの願いをどのように聞いておられたのでしょうか?
イエス様はヤコブとヨハネに対して「わたしが飲む杯を飲めるのか」「わたしが受ける洗礼を受けられるのか」と尋ねました。
それに対して、二人は「できます」と即答していますが、おそらくこの時、まさかイエス様がエルサレムで逮捕され、裁判にかけられ、最終的に、十字架で処刑されるなんてことは想像していなかったでしょう。
それでイエス様は、ご自身がどのようなメシアであるのかを明らかにするため、偉くなりたいという弟子たちの思いに対して、教えられます。
イエス様は「偉くなりたい」という思いに対して、「そんなことを考えてはならない」と弟子たちの願いを全否定されたわけではありませんでした。
イエス様が問題視されたことは、当時の支配者や権力者のあり方です。
当時、一国のリーダーは、民を支配し、コントロールすることのできる絶大な力を握っていました。
ローマ帝国の支配下に置かれていたユダヤの民も、そういう権力のもとに苦しみを受けていました。
イエス様が言われたことは、「偉くなりたいのであれば、誰よりも偉くない者のようになりなさい」「一番上になりたいのであれば、誰よりも下にいる人のようになりなさい」ということです。
これはつまり、高い地位に就くことによって与えられる権力を、自分の思い通りに誰かをコントロールするために使うのではなく、人々の思いや必要とすることに応えるために使いなさいということです。
ミスター身代金
まさに、イエス様こそ、誰よりも偉くない者のように、誰よりも下にいる人のように、この世に来てくださったお方です。
イエス様はご自身が、仕えられるメシアではなく、すべての人に仕えるメシアとして来られたことを明らかにしています。
イエス様は仕えるために、自分の命を捧げるために来たのだと語られました。
ここでイエス様はご自身のことを指して「多くの人の身代金」だと言っておられます。
身代金というと、今の時代は主に、誘拐された人を解放するために支払うお金のことを言いますが、当時の世界において、この言葉は、戦争で捕虜になった人や奴隷を解放するために支払うお金のことを指しました。
つまり、イエス様は、本来のあり方から離れてしまった人を、元ある状態に戻すために支払われる代価として、来られたということです。
私たちは皆、本来の主人である神様から離れ、元ある状態から離れていました。
そんな私たちのために、神様はイエス様を身代金として差し出してくださいました。
それによって、神様は私たちを罪の奴隷から買い戻し、神様の子供として生きるようにしてくださったのです。
神様が神の独り子を犠牲にするほどに、私たちの側に買い戻す価値があったからです。
身代金として来られたイエス様を見上げるとき、私たちの生きる意味と価値が新たにされるのです。