牧師ブログ

「イエスについて行ったら、家に泊めてくれた」

35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。40ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。42そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。(ヨハネによる福音書1:35-42)

ヨハネの弟子たちの期待

洗礼者ヨハネがキリストに洗礼を授けた次の日、ヨハネの二人の弟子の前に、キリストは姿を現しました。
洗礼者ヨハネという人は、当時のユダヤ教の中で、新しい運動を起こし、社会に大きな影響力を与えていました。
多くの人々が、ヨハネの「悔い改めよ。神の国は近づいた」という叫びを聞いて、ヨハネのもとを訪れ、洗礼を受けていました。

それまでは、洗礼というと他の宗教からユダヤ教に改宗する人に対して、行われていたものでしたが、ヨハネはユダヤ教徒の中で、自分の罪を告白し、悔い改める者に対して「悔い改めの洗礼」を授けていました。

そんなヨハネを見ながら、ヨハネに弟子入りを志願する人々が現れました。
一般的に、弟子という言葉を聞いて想像するのは、職人さんや音楽、スポーツなどの専門性を持っている人のもとで、訓練を受けている人だと思います。
そのように師匠に弟子入りする目的は、専門性を磨いて、成長するためです。

ただヨハネの弟子というのは、それとは異なります。
ヨハネはユダヤ教という宗教のリーダーの一人で、当時の社会に大きな影響を与えていた人物です。
そんなヨハネのもとに弟子入りした人々が期待したことは、単に自分を成長させるということだけではなく、社会の変革だったように思います。
そこには、この人についていけば、ユダヤ社会を変えることができるのではないかという期待があったのです。

そんなヨハネの弟子たちの前に、キリストは姿を現しましたが、その時ヨハネは歩いているキリストを見つめながら「見よ、神の小羊だ」と言いました。
この言葉が意味するのは、このお方こそ、この世界を救ってくれるメシアだという期待です。
この言葉を聞いて、それまでヨハネに従っていた二人の弟子は、イエスについていくようになりました。
二人はこの方に大きな期待を抱きながら、従っていったことでしょう。

キリストとのお泊まり

二人の弟子がキリストについて歩いていると、キリストは振り返ってこう問われました。
「何を求めているのか」

この問いかけに対して、弟子たちは反対にキリストに「どこに泊まっているのですか?」と問い直しました。
そうすると今度はキリストが「来なさい。そうすればわかる」と言われ、二人はそのままキリストについていき、キリストが泊まっている場所を見ることになりました。
そしてその日は、キリストが泊まっている場所に一緒に泊まったのです。

このやりとりにおいて、不思議に感じることがあります。
「何を求めているのか?」というキリストの問いかけに対して、なぜ二人の弟子はキリストが止まっている場所を尋ねたのでしょうか?
さらには、なぜキリストは二人を自分が泊まっている場所に連れて行くだけでなく、二人をそこに泊めてあげたのでしょうか?

この出来事が何を意味しているのかを理解するためには、二人の弟子がキリスト一緒に泊まった後に起こったことに注目してみる必要があります。

この時、キリストについて行った二人の弟子のうちの一人がアンデレでした。
アンデレは、キリストと一緒に泊まった後、自分の兄弟であるペトロのところに行き、私はメシアに出会ったと告げ、それからペトロをキリストのところに連れていきました。

つまり、アンデレはキリストについていき、キリストが泊まっている場所を見たこと、そして、キリストと一緒に泊まったことを通して、このイエスという方がメシアだと確信するよになったのです。

「泊まる」=「留まる」

この出来事において、重要な事柄が「泊まる」ということにあります。
この言葉には、他に「留まる」とか「つながる」という意味があって、この福音書の中で何度も出てくる重要なワードの一つです。
本文の「泊まる」という言葉を「留まる」という言葉に置き換えて読んでみるとこうなります。

イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに留まって(つながって)おられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが留まって(つながって)おられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに留まった(つながった)」(38-39節)

そうです、二人が見たのは単にキリストの宿泊場所ではありませんでした。
キリストがどこに泊まっているかを見たということは、キリストがどこに留まっているのか、何につながっているのかを見たということです。
二人が見たのは、父なる神様につながっているキリストの姿だったのです。

つまり、二人の弟子はキリストが父なる神様の中に留まっている姿を見たことによって、キリストが父なる神様によって遣わされてこの世にきたメシアであることを信じたのです。
その後、十字架にかけられるまでの3年半の間、弟子たちは、いつも父なる神様の中に留まり、神様との愛の交わりの中にあるキリストの姿を見続けたことでしょう。
そして、弟子たちもまた、父なる神様につながるキリストにつながっていったのです。

クリスチャンの本質

このことから、キリストについて行くこと、キリストに従うことの本質がわかってきます。クリスチャンとして、キリストを信じ、従って行くということは、キリストに留まっていることです。
キリストにつながり、キリストとの関わりを持っていることが、信仰によって生きるということです。

わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。(ヨハネによる福音書15:4)

これはキリストが弟子たちに向かって語ったことですが、ここでキリストが求めていることは何でしょうか?
それは、ただ「わたし(キリスト)につながっていること」です。
もっと厳密にこの文章を翻訳すれば「キリストにつながり続けていること」です。

クリスチャンとして生きる者に求められていることは、何よりもまずキリストにつながり続けていることであり、このキリストの関わりを持ち続けて生きることこそが、クリスチャンとして生きることそのものなのです。