牧師ブログ

「暗闇の住民が見た光」

12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。15「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、16暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。(マタイによる福音書4:12-17)

ガリラヤから始まった宣教

キリストは洗礼者ヨハネが捕らえられたことをきっかけに、ガリラヤに退き、このガリラヤから宣教を始めました。
12節にある「ガリラヤに退いた」という言葉からは、ヨハネが捕らえられたことにキリストが恐れを抱いて、ガリラヤに逃げていったというような印象を受けますが、そうではありません。

そもそもキリストが向かったガリラヤは、ヨハネを捕らえたヘロデが支配していた地域なので、逃げる場所としてはふさわしくありません。
また、同じ場面を描いているルカによる福音書をみると、キリストは「霊の力に満ちて、ガリラヤに帰った」とあります。

このことから、キリストはガリラヤに逃げていったのではなく、単純にガリラヤに移動したということでしょう。

そうだとしたら、なぜキリストはガリラヤへ行き、そこから宣教を始めたのでしょうか?
その理由が、14〜16節にあります。

14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。15「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、16暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

キリストがガリラヤから宣教を始めたことは、旧約時代にイザヤという預言者によって預言されていたことでした。
つまり、キリストがガリラヤから宣教を始めたのは、神様の御心に従ってなされたことでした。

異邦人のガリラヤ、暗闇のガリラヤ

このガリラヤについて、15節の最後に「異邦人のガリラヤ」とありますが、もともとガリラヤというのは、異邦人の土地ではなく、イスラエルに属する土地でした。
旧約のヨシュアの時代に、イスラエルの部族の中で、ゼブルン族とナフタリ族に与えられたところがガリラヤでした。

ガリラヤはイスラエルの北に位置していて、他国との国境にあったため、たびたび北の方にある国々から攻撃を受けることとなりました。
そして、BC8世紀になり、アッシリアという国に完全に支配されてしまいました。
その結果、ガリラヤには多くの異邦人が流入し、ガリラヤはイスラエル人と異邦人の血が混ざった混血民族の土地となりました
こうして、ガリラヤは民族的にも、宗教的にも、純粋なイスラエルでは無くなっていったのです。

こういう歴史的な経緯があり、ガリラヤは「異邦人のガリラヤ」と言われるようになりました
この呼び方は侮辱を込めた言い方で、純粋なイスラエル人からしたら、ガリラヤは軽蔑の対象となっていったのです。

イザヤの預言において、ガリラヤの住民について「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」と言われているのも、こういう経緯があったからでしょう。
イスラエルの純粋性を失い、異邦人の神々に影響され、真の神から離れていったガリラヤの住民は、暗闇と死の陰の中で生きる者となっていったのです。

暗闇の地に差し込んだ光

しかし、この暗闇の地に大逆転が起こります。
16節に「暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」とあります。
この光こそ、イエス・キリストです。

キリスト=光という表現は、福音書を書いたヨハネがよく用いたものでした。
キリストは暗闇の中に、光として来られた方であり、暗闇と死の陰の地に生きる住民たちの光となったのです。

ただ、暗闇の中に置かれていたのは、ガリラヤという地域だけではありません。
先ほどのヨハネも、福音書の中で「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(1:5)と言っています。
ヨハネは光であるキリストを理解しなかったユダヤ社会全体、ひいては、この世界のことを暗闇だと言っているのです。

これは、2000年前の世界に限った話でありません。
長引く新型コロナウイルスによる影響やロシアによるウクライナ侵攻など、今の世界も暗闇に覆われているように見えます。

一体、この暗闇の正体は何でしょうか?
なぜこの世界は、暗闇に覆われるところになってしまったのでしょうか?

神のもとに帰る

光であるキリストは、父なる神とその愛を人々に伝えるために、この地に生まれました。
そうだとすると、当時の人々は、父なる神とその愛を知らなかったということです。
つまり、人々が暗闇の中に住んでいたのは、光を知らなかったから、すなわち、父なる神とその愛から離れて生きていたからに他なりません。

だからこそ、キリストは「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉をもって、宣教を始めました。
暗闇の世界に住む人々に対して、キリストが求めたのは、悔い改めることでした。

「悔い改めよ」という言葉は、キリストが来る前に、ユダヤに現れた洗礼者ヨハネが語ったメッセージと全く同じです。
ただ、2人が宣べ伝えたメッセージは、本質的には異なるものでした。

ヨハネが求めた悔い改めは、自分の罪を告白して、悔い改めにふさわしい実を結ばなければ、神による裁きがあるというものでした。
つまり、ヨハネのメッセージを言い換えると「神の怒りは近く、悔い改めなければ裁きがある。だから、悔い改めよ。」というものでした。

それに対して、キリストが求めた悔い改めには、裁きや怒りに基づいたものではありませんでした。
そもそも「悔い改め」という言葉には、「罪を悔いる」とか「懺悔する」という意味合いはなく、「帰る」とか「向きを変える」ことを意味します。
つまり、キリストが求めた悔い改めは、神様のもとに帰ること、神様の方に向きを変えることです。

キリストは、暗闇の世界に生きる人々に対して「神様のもとに帰って来なさい」と言っています。
私たちを造られた神様、私たちを導いている神様、私たちを命がけで愛し、守ってくれる神様、この神様と共に生きる人生からは、暗闇が追い出されていくのです。