牧師ブログ

「不自然な食事の席」

【マルコによる福音書14:10-26】

10十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
11彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
12除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
13そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
15すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
16弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
17夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
18一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
19弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
20イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
21人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
22一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
23また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
24そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
25はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
26一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

裏切り者のユダ

今日の聖書箇所には、イスカリオテのユダというキリストの弟子が出てきますが、皆さんの中で、イスカリオテのユダのことが好きという人はいるでしょうか?
おそらく、ほとんどの人が、イスカリオテのユダという名前を聞いて、まず思い浮かべることは「キリストを裏切った人」ということだと思います。

ユダと言ったら裏切り者です。
そういう意味で「私はユダの大ファンです!」という人は、なかなかいないでしょう。

私たちが聖書を読みながら、このユダという弟子について疑問に感じることは、なぜ裏切り者のユダが、弟子になりえたのかということです。
もし、キリストがユダに裏切られることを知っていたのなら、なぜ、キリストはユダを弟子として招いたのでしょうか。

キリストはユダのことをどのように思っていたのでしょうか?
今日、分かち合う聖書の場面から考えていきたいと思います。

今日の聖書箇所は、イエス様が十字架にかかる前日の出来事を記しています。
その夜、キリストは弟子たちと過越の食事を分かち合い、その中でパンとぶどう酒を分かち合いました。
今日、この後、聖餐式を行いますが、その起源がここにあります。

過越祭が始まると、キリストは過越の食事をするために、弟子たちと一緒に集まりました。
この時に集まったのは、キリストの弟子の中でも、特に中心的な弟子であった12人の弟子たちです。

食事をしている最中、突然、キリストが言われました。

はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。(18節)

それを聞いた弟子たちは「まさかわたしのことでは」と言い始めました。
この「まさかわたしのことでは」という言葉は「わたしかもしれない」というよりも「わたしのことではないだろう」という意味の言葉です。
この時、弟子たちはみんな「自分は裏切るわけはない」と思っていました。

これを聞いた時、ユダの心はどうだったでしょうか?

裏切られることを見抜いていたキリスト

実は、この過越の食事の直前に、ユダはキリストを引き渡すことを、ユダヤのリーダーたちと約束していました。

十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。(10-11節)

祭司長というのは、ユダヤのリーダーたちのことですが、この時、リーダーたちは、キリストを殺そうと考えていて、もし見つけたら通報するように、命令を出していました。

そのため、彼らは弟子のうちの1人が、キリストを売り渡そうとして、自ら来てくれたことに喜びました。
リーダーたちはユダにお金をあげる約束をして、キリストを引き渡してもらうことに決まりました。

この直後にキリストは、過越の食事をしている最中に「わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」と、弟子の1人が自分を裏切るということを明らかにしました。

ユダはその言葉を聞いて、かなり驚いたことでしょう。
なぜ、自分の計画がバレているのか、と。

そもそも、なぜユダはキリストをユダヤのリーダーに引き渡そうとしたのでしょうか?
お金に目が眩んだというような憶測もありますが、私はそうではなかったと考えています。

弟子たちはみんな、イエスが旧約聖書で預言されているメシアだと信じ、弟子として従っていましたが、おそらく、その核心部分が揺らいだのではないでしょうか。
「本当にイエスがメシアなのか?」と。

聖書からは何かはっきりと断言できることはありませんが、おそらくユダは、イエスがメシアであることを疑う何かがあって、ユダヤ当局に引き渡そうとしたのではないでしょうか。

微妙な空気が流れる中で…

さらに、キリストは自分を裏切るのが誰であるのか、もう少し具体的に踏み込んだ話をしました。

十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。(20節)

ユダヤ人は、パンを食べる時に、鉢に入ったソースにつけてパンをつけて食べたそうです。その時、1人1つの鉢があったわけではなく、何人かで1つの鉢を一緒に使いました。

このことから「わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」という言葉は、直接、ユダだと名前を明らかにしたわけではない。
2人か3人かわからないが、キリストと一緒の鉢を使っている弟子のうちの1人が裏切るということです。

ただ、不自然なことに、じゃあ一体裏切るのは誰なのかという話は、そこで終わっています。
キリストは、それ以上の話はしませんでした。

普通に考えれば、そこまで絞られれば犯人探しが始まりそうなものです。
でも、そういう話は書かれていません。
裏切るのは誰であるのか明らかにならないまま、過越の食事は、そのまま続いたのです。

それから、キリストはパンを取って、賛美の祈りを唱えて、それを裂いて、弟子たちに与えました。
そして、パンと同じように、キリストはぶどう酒を入れた杯を取って、感謝の祈りを唱えて、弟子たちに渡しました。

この時、キリストからパンとぶどう酒を受け取った中には、当然、ユダもいたわけです。
ユダはどういう思いで、キリストからパンとぶどう酒を受け取っていたのでしょうか?

また、26節を見ると、過越の食事が終わると、賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけたみたいですが、この時ユダは、どんな気持ちで賛美をしていたのでしょうか?

ユダからしたら、もう引き返せないところまで来てしまったと感じていたかもしれません。
あるいは、もう迷いはないと心に決めていたかもしれません。

反対に、ユダに裏切られることを知っていたキリストの心は、どうだったでしょうか?
キリストはどんな気持ちで、ユダにパンを与え、ぶどう酒を分かち合ったのでしょうか?

最後まで待ち続ける

結局は、ユダの心も、キリストの心も、聖書には書かれていないので、想像することしかできません。
ただ、少なくともこの場面から分かることは、キリストはユダを裏切り者として吊し上げなかったということです。
キリストは、最後までユダが悔い改めることを待っていたからではないでしょうか。

もし、裏切るのはユダだと明かしていたら、弟子たちは当然、ユダのことを責めたでしょうし、ユダを何かしらの形で裁いていたはずです。

そういう意味で、過越の祭りを祝う場で、ユダがキリストと他の弟子たちと一緒に食事を分かち合い、パンとぶどう酒を分かち合ったという事実は、とても大きな意味があります。

キリストは、ユダのようなものでも、決して吊し上げることも、裁きを下すこともせずに、最後まで待ってくださるお方です。

私たちは誰も、自分がユダのようにはなりたくないと思うでしょうし、私はユダみたいになることはないと言いたくなるでしょう。

ただ、誰もわたしは絶対にユダのようにはならないとは言えないのです。
むしろ、私たちはユダのようなものかもしれません。

大切なことは「私は絶対にユダのような人にはなりませんとと決意することではありません。
キリストは自分のことを裏切ったユダにも、パンとぶどう酒を分かち合ったということです。
絶対に受け入れ難い相手でさえも、キリストはすでにその存在を愛し、受け入れてくださっているのです。