牧師ブログ

「あの方はここにはおられない」

【マルコによる福音書16:1-8】

1安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
8婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

クリスチャンの原点である復活

今日は、イエス・キリストが復活したことを記念して捧げるイースター礼拝、復活祭です。
イースターは毎年、春の時期に、世界中でお祝いされるキリスト教のお祭りです。

キリスト教の祭りというと、クリスマスが最もよく知られていると思いますが、イースターはクリスマスと違って、何月何日と決まっていません。

イースターの日がどうやって決まるのかというと、春分の日(1年のうちで昼と夜の長さがほぼ同じになる日のこと)の後の最初の満月の次の日曜日がイースターです。
だいぶややこしいですが、3月22日〜4月25日のどこかの日曜日が、毎年イースターの日になります。

そういう意味で、イースターは春のお祭りと言えますが、日本で「春のお祭り」と言ったら何でしょうか?
日本で有名な春のお祭りと言えば「ヤマザキ 春のパン祭り」でしょう。

山崎パンの商品についているシールを集めて、それを送ると、白いお皿がもらえます。
ちなみに「ヤマザキ 春のパン祭り」は、1981年に始まり、今年で44回目を迎えるそうです。

ただイースターは、それよりもずっと長い歴史を持っています。
先ほどクリスマスの話を少ししました。
世間ではイースターより、クリスマスの方がずっと盛り上がりますが、クリスチャンにとっては、イースターはクリスマスよりももっと大切な日と言うことができます。

例えば、パウロという人は、コリント教会に宛てて書いた手紙の中でこのように言っている。

キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にいることになります。(コリントの信徒への手紙一15:17)

「キリストが復活しなければ、今もなお罪の中にいる」ということは、キリストが十字架で死んで終わっていたら、私たちは今もなお、罪の中にいるということです。

イエス・キリストという名前を聞いて、多くの人がまず思い浮かべるのは十字架だと思います。
ただ、パウロはもしキリストの生涯が十字架の死で終わっていたのなら、救いはないとまで言っているのです。

キリストが人々の身代わりとして、十字架にかかったことは立派な行為であり、死で終わっていたとしても尊敬の対象にはなったでしょう。
しかし、礼拝の対象、信仰の対象にはならなかったと思います。

パウロは、キリストが死に打ち勝って、復活したからこそ、私たちは罪から救われて、私たちも死に勝利することができると言っています。

また、新約聖書の使徒言行録という書物を見ると、初代教会の使徒たちが伝えたことは、「イエス・キリストは復活した」ということ、そして「私たちは、その復活を目撃した」ということです。
使徒たちが、イエス様について証言した重要な内容は「イエス様は復活した」ということでした。

このように、聖書を読むと、復活はクリスチャンの原点とも言える出来事です。
なぜ、イエス・キリストの復活がそんなにも重要なのでしょうか?
キリストが復活したことは、私たちとどういう関係があるのでしょうか?

空になった墓を見た婦人たち

キリストが十字架で処刑されたのは、金曜日のことでした。
次の日は土曜日で、安息日でしたが、ユダヤでは安息日になると、遺体に処置をしたり、墓に運んだりすることができませんでした。
そのため、キリストの遺体は簡単に布で包まれて、墓に葬られていました。

三人の婦人たちは、安息日が終わってから、キリストの遺体に油と香料を塗って、きれいに整えようと考えていました。
それで、彼女たちは安息日が終わるとすぐに香料を買って、日曜日の朝早くに墓に向かって行きました。

この時、婦人たちの心には、ある心配がありました。
それは、キリストが埋葬された墓の入り口に、大きな石が置かれていたことです。

ユダヤのお墓というのは、岩に横穴を明けた洞窟のような作りになっていて、その入口には、穴を塞ぐための大きな石が置かれていました。
そのため、三人は「だれが墓の入り口から、あの石を転がしてくれるでしょうか」と言いながらも、とりあえず墓に向かって行きました。

こういう三人の婦人たちの言動が表していることがあります。
それは、彼女たちが会いに行ったのは、あくまでも死んで葬られたキリストだったということ。

本文の6節を見ると、墓の中にいたある若者が「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが…」と三人の婦人たちに言っています。
その通り、彼女たちが捜していたのは「十字架につけられたナザレのイエス」でした。

そもそも墓というのは、完全な死を意味する場所です。
そのため、墓の中に入れられた人は、死という力によって完全に支配された状態に置かれています。
三人の婦人たちの目的というのも、キリストの遺体と会うことにありました。

墓に向かっていた婦人たちは、殺される前のイエス様のことを思い起こしていたと思います。
キリストは死んでしまったけど、その教えは、彼女たちの心の中にまだ生きていたからこそ、墓に向かっていったのでしょう。

しかし、婦人たちが墓に着くと、入口の石が脇に転がしてありました。
婦人たちは、墓の中にいた若者から「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と言われました。
この時、婦人たちは、実際に復活したイエス様を見たわけではなかったが、空になった墓を見ながら、イエス様が復活したことを知ったのです。

素晴らしい教え以上のもの

この出来事は、キリストに出会うこと、キリストを信じることが、どういうことであるのかを表しています。

「キリストはもう死んでしまったけど、あの方の素晴らしい教えによく従って、これから生きていこう」というのが、キリストを信じることではありません。

キリストに出会う、キリストを信じるというのは、過去の人であるキリストに出会うことではありません。
単に、キリストの素晴らしい教えに従おうとすることでもありません。

素晴らしい教えは、この世に溢れています。
もちろん、聖書にも素晴らしい教えは書かれていますが、歴史上の偉大な人物や、いろんな本を通しても、素晴らしい教えを学ぶことはできます。

しかし、生きているキリストに出会うためには、聖書を読んでみないとわかりません。
聖書が伝えているキリストというのは、死からよみがえり、今も生きておられるキリストです。
キリストを信じることは、死から復活され、今も私たちと共に生きておられるお方を信じることです。

復活の力と命

それでは、私たちが、死から復活されたキリストを信じることに、どのような意味があるのでしょうか?
キリストが復活したことと私たちとは、どのような関係があるのでしょうか?

キリストが復活したことによって、明らかになったことがあります。
それは、キリストは死の力に閉じ込められるような方ではないということです。

死というのは、とても大きな力です。
すべての人間が必ず相手にしなければならない力ですが、これまで死と戦って、死に勝ったことができた人は誰もいません。
私たちには、死を乗り越える力はないからです。

しかし、歴史上で、ただ一人だけ、死に打ち勝ったお方がいます。
それが、イエス・キリストです。

キリストが復活したことによって明らかになったことは、キリストは、人間のように死の力に支配される方ではないということです。
キリストは死の力だけではなく、何かに縛られたり、支配されたりする存在ではありません。

私たちは人間なので、キリストと同じように、死や悪などの力と関係ないわけではありません。
いろんな力に影響を受けながら生きていくのが私たちの人生であり、その中で痛みや苦しみを感じることもよくあります。

しかし、死に打ち勝ったキリストを信じる時、私たちはそういうものに完全に支配されることがなくなります。
死を打ち破ったキリスト共に、そのお方の中で生きることで、私たちは何かに縛られたり、支配されたりする人生ではなくなっていきます。

私たちは皆、いつか肉体の死があり、人生の終わりを迎えます。
しかし、聖書には、私たちもキリストと同じように新しい体で復活するという約束があります。
キリストを信じる時に、新しい命に生きることになります。
この命は、死にも打ち勝ち、天国に至るまで永遠に生きることになる、新しい命なのです。