牧師ブログ

「しかし、あなたに言っておく」

21「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。23だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。25あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。26はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」27「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。29もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」(マタイによる福音書5:21-30)

ねじ曲げられてしまった律法

マタイによる福音書の5章のなかで、キリストは旧約聖書にある6つの律法を引用しながら「隣人を愛する生き方」について教えています。
今日分かち合うところは、そのうちの最初の2つです。

5:21-26までは「殺してはならない」という教えについて、また27-30節では「姦淫してはならない」という教えについて、取り上げられています。
この2つの教えは、モーセが神様から受け取った10の教えである「十戒」の中に含まれているもので、イスラエルの民が代々、大切に守ってきた神様の教えです。

ここで、十戒を含めて、神様がイスラエルの民に与えた「律法」の教えについて、その歴史を振り返っておきます。
新約聖書の中には、旧約時代にはいなかった「律法学者」という人々が出てきます。
その背景には、BC6世紀に起こったバビロン捕囚(イスラエル王国がバビロンという国に滅ぼされてしまった悲劇の歴史)が深く関係しています。

バビロン捕囚後、イスラエル民族の中には、神様の民である私たちが異教の国に負けて滅ぼされたのは、律法を軽んじたせいだと考える人々が出てきました。
それで、イスラエルは国を再建するにあたって、律法をとても大切に考えました。
そうする中で、律法の専門家が生まれ、律法を教えるラビという先生がユダヤ社会に登場してきました。

しかし、キリストの時代になると、律法は学者たちによってその意味が歪められてしまい、誤った教えが蔓延していました。
キリストも言ったように、律法の中心は「神を愛すること」と「隣人を愛すること」にありますが、律法学者の教えからはこの大切な2つが抜け落ちてしまっていました。

それでキリストは「神を愛すること」と「隣人を愛すること」、この2つの観点から、もう一度、ユダヤの人々に律法について正しく教える必要があったのです。

行為に先立つ「心」

それでは、キリストは律法について具体的にどのように教えたのでしょうか。
21節に出てくる律法は十戒の6番目に記されている「殺されてはならない」という教えです。
律法によると、故意に人を殺した場合には、処刑されると定められていました。

また、27節に出てくる律法は十戒の7番目に記されている「姦淫してはならない」という教えです。
ここで姦淫というのは、他人の妻と性的な関係を持つこと、すなわち、不倫のことです。
姦淫の罪を犯した場合も、殺人と同様に死刑に処せられました。

キリストは、この2つの律法を取り上げた後に「しかし、わたしは言っておく」と言いながら、この律法が何を教えているのかについて説明していきます。

22節を見ると、キリストは実際に人を殺していなくても、誰かに腹を立てるならば、裁きを受けると語っています。
この場合、裁きというのは、当時のユダヤの町や村にあった地方裁判所で受ける裁きのことです。

さらには、人に対して「バカ」と言う者は、重い罪を裁くための最高法院で裁きを受けなければならず、「愚か者」と言う者は、地獄に投げ込まれるという神様による裁きを受けなければならないと、キリストは厳しく語りました。

ここで腹を立てるという言葉は「根に持つ怒り、忘れようとしない怒り、和解しようとしない怒り、復讐しようとする怒り」という意味があります。
なので、キリストが裁きを受けると言っている怒りとは、怒り続けて、和解することなく、相手に復讐を企むような怒りのことです。

つまり、キリストは人を殺すという行為はもちろんのこと、心の中で誰かに対して怒りを持ち続けたり、その人の人格を傷つけたりすることは、神様の目から見るならば「殺す」という行為に等しいと言っているのです。

また「姦淫するな」という律法についても、実際に姦淫の罪を犯していなくとも、誰かの妻を淫らな思いで見るならば、それはすでに姦淫の罪を犯していることになると、キリストは言っています。

この2つの教えに共通していることは、その行為につながる「心」をキリストが問題視しているということです。
すべての罪は、赦さない心、みだらな思い、こういった心から始まるのです。

自分の心はコントロールできない

十戒の教えを見ると、6番目以降は、「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「隣人に関して偽証してはならない」「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲してはならない」と続きます。

これを見ると、次第に罪の大きさのレベルが低くなっていっていることがわかります。
殺人や姦淫は、律法でも死刑になる罪でしたが、隣人の物を欲することについては、律法で罰が与えられるような罪ではありませんでした。

しかし、最近、世間を騒がせている特殊詐欺事件を考えてみるとわかるように、彼らを騙すという詐欺行為から、人を殺すという殺人行為へと発展させてしまった根底には、人のものを欲するという心があります。
「あの人が持っているお金が欲しい」という心が、嘘をよび、騙し、盗みへとつながっていき、さらには、殺すという行為までエスカレートしていったのです。

だから私たちは、怒り続けること、人格を傷つけること、淫らな思いを持つこと、人のものを欲しいと思うことについて、そういう自分の心を軽く考えることはできないのです。

だからと言って、そういう心を押し殺すこともまた、私たち人間には難しいことです。
「心」というのは私のものでありながら、自分の意思や努力でコントロールできるものではありません。

それでは、こういう心の問題について、私たちはどのように対処したらよいのでしょうか?

怒りは捨てなくてもいい?

23だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。25あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。

キリストはm誰かが自分に反感を持っていることを知ったならば、礼拝するよりも先に、その人のところに行って、仲直りしなさいと教えています。
わだかまりを解決しなさい、ということです。
キリストは「怒りを捨てなさい」ではなく「和解しなさい」と言われました。

ある意味、私たちが悪い感情を持つことは、人間として自然なことです。
クリスチャンは、怒りや憎しみ、妬みなど、そういうマイナスな感情を持たない完全に清い人物になることを目指しているわけではありません。
キリストは、たとえ誰かを攻撃することにつながる怒りや憎しみが生じたとしても、そこにとどまるのではなく、そこにある問題と向き合うように導いておられるのです。

そして、何よりも誰かが誰かと争っていること、分裂し、仲違いすることをキリストは悲しんでおられます。
なぜなら、一人一人が神様のかたちとして、神様に似せてつくられた尊厳のある存在であり、共に生きていくように造られたからです。

救いとは「和解すること」だと言うことができます。
自分自身を認め、自分を自分として受け入れること、すなわち自分と和解することです。
そして、敵対している人々やこの社会との和解を経験していくことです。

そこに必要となるものこそが、神様です。
神様の存在を知り、神様との愛の関係を取り戻し、和解することが必要なのです。
神様との和解を通して、私たちは自分自身と隣人、そして、この世界と和解していくことができるようになるのです。

信仰とは「怒りを捨てなさい」「怒りという感情を一切持たないようにしなさい」ではありません。
神様の前で自分自身を正直に受け止め、神様と共に和解の道を歩むことなのです。