牧師ブログ

「変わるのではない。変えられるのだ」

1六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
(マタイによる福音書17:1-9)

キリストの変貌

ある時、山の上でキリストが栄光に輝く姿に変えられ、そこに突然、モーセとエリヤが現れたと思ったら、雲の中から声が聞こえてくる、という不思議な出来事を3人の弟子は目撃しました。
まるでファンタジーの世界で起こったような話ですが、この出来事は何を意味しているのでしょうか?

マタイはこの出来事を記すにあたって「六日の後」という言葉から始めています。
1節を見ると「六日の後、イエスは…」とあるように、この出来事は、どうやら六日前の出来事と関わりがありそうです。

それでは六日前に何があったのかというと、16章の終わりの方を見ると、そこには、キリストが多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活すると、弟子たちに伝えられた出来事が記されています。
この時弟子たちは、初めてキリストの死と復活について聞きましたが、誰もその話を理解することができなかったようです。
これ以降、弟子たちの中で「本当にキリストはメシアなのか?」と疑い始めた者もいるかもしれません。

そういうわけで、キリストは、ご自身が旧約聖書で約束されているメシアであることを弟子たちに伝え続ける必要がありました。
「イエスはメシアである」というメッセージこそ、キリストが生涯をかけて伝え続けたことであり、聖書が伝えている良い知らせ(福音)です。

不思議な光景が意味していること

キリストは3人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを引き連れて、山に登りました。
山の上で、3人は不思議な光景を目撃することになります。
目の前で、突然、キリストの顔が太陽のように輝き、服は光のように真っ白になりました。
さらに驚くべきことに、キリストの隣には、モーセとエリヤの2人が立っていたのです。

神様は何か重要なことを伝える時に、山の上でしてきた過去があります。
旧約時代にモーセが神様から律法を受け取ったり、預言者エリヤが神様から後継者となるエリシャという人物に油を注ぐように言われたのは、ホレブという山の上でした。

この時に現れたのが、モーセとエリヤの2人だったことにも大きな意味があります。
旧約時代において、モーセは律法を代表する人であり、エリヤは預言者を代表する人です。
律法と預言者というのは、旧約聖書全体を指す時に使われる言葉であり、律法と預言者の代表であるモーセとエリヤは、旧約聖書を代表する人物だと言うことができます。

これら旧約聖書を代表する2人がキリストと語り合っていたということは、キリストと旧約聖書の間に深い関連性があることを表しています。

そもそも聖書は旧約聖書と新約聖書が合わさったものですが、そこに何が書かれているかというと、古い約束(旧約)と新しい約束(新約)という名が表しているように、神様の約束が書かれているのが聖書です。

そのうち旧約聖書で約束されていることは何かというと、それはこの世界にメシアを与えるという神様の約束です。
キリストは、旧約聖書が約束されていたメシアとして人間として生まれた方であり、死や復活についても、旧約聖書の中で触れられています。

こういうことを踏まえて考えてみると、3人の弟子が目撃した不思議な光景が意味していることは、キリストは約束のメシアとして来られた方であるということ、そして、栄光に輝くキリストの姿は、復活の栄光の輝きだったと考えることができます。

私たちの疑念

不思議な光景を目撃した3人は、もともとはガリラヤで漁師をして、生活していたごく普通の人々です。
そういう彼らがこれまでの生活を捨てて、キリストに従うようになったのは、イエスがメシアではないかという期待を抱いたからです。

しかし、弟子たちにとって、キリストが死ぬという話は、簡単に受け入れられるものではありませんでした。
なぜなら、ユダヤを救ってくれるはずのメシアが、誰かに殺されるようなことは絶対にあってはならないことだったからです。

今日の場面の直前で、キリストは初めて、弟子たちに対して死と復活の話を告げました。
この時から、弟子たちの中では、本当にこの方はメシアであるのかという疑念を持ち始めた者もいたはずです。
実際に、弟子たちがイエスがメシアであることを信じ受け入れたのは、キリストが復活した後のことでした。

私たちの中にも、イエスがメシアであるなら、絶対にこんなことはあってはならない、起こってはならないと考えることがあるかもしれません。
イエスがメシアなら、なぜ私の人生にこんなことが起こるのか、なぜこの世界では、こんなに悲惨なことが繰り返し起こっているのか、と。

こういう私たちの心に対して、キリストは「不信仰な者よ!」と叱るようなことはしません。
それは、キリストが弟子たちにしたことを見ればよくわかります。
キリストは繰り返し、ご自身の死と復活について、弟子たちに伝えました。
また、今日の場面がそうであるように、不思議な現象を通しても、ご自身がメシアであることを伝えました。

私たちが何かを疑うという心は、人間として正常であり、これは心が機能している証拠のひとつです。
そういう時に、キリストは私たちに対して、繰り返し語り続けてくださいます。
神様の言葉である聖書を通して、はたまた、弟子たちが体験したように、不思議な現象を目の当たりにすることがあるかもしれません。

もうすでに変えられ始めている

弟子たちが見たキリストの光り輝く姿とは、復活の姿でした。
しかし、それはただキリストの復活を指し示すだけではありません。
キリストが栄光に輝く姿は、私たち人間が、神様によって最終的にどのように変えられるのかということを示す出来事でもあるのです。

2節をみると「イエスの姿が彼らの前の前で変わり」と書かれています。
この「変わり」という言葉は、厳密には「変えられ」という言葉です。
つまり「イエスの姿が変えられた」ということです。

イエスはメシアとして、同時に一人の人間として、栄光の姿に変えられたのです。
イエスを変えたのは、他ならぬ、父なる神様でした。

そうだとしたら、私たちも「変わる」のではなく、「変えられる」のです。
信仰は「変わるために頑張ること」ではなく、「神様によって変えられる過程を生きること」です。
私たちを変えるのは、あくまでも神様であるのなら「私を変えられる神様を待ち望むこと」が信仰だと言えます。

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(コリントの信徒への手紙II 3:18)

私たちは、神様によってキリストと同じ姿に変えられていきます。
完全に変えられるのは、天においてですが、もうすでに聖霊の働きによって、私たちは変えられ始めているのです。
その行き着く姿が、山の上でキリストが光輝いていた姿、すなわち、栄光に輝く復活の姿なのです。

この復活の希望があるからこそ、私たちは絶望することなく、現実と向き合うことができます。
ペトロは、キリストがモーセとエリヤと語り合っている姿を見た時、3人のために仮小屋を建てる提案をしました。
それは、栄光に輝くキリストの姿をずっと見ていたかったからであり、旧約時代を代表するモーセとエリヤと一緒にいたいと思ったからでしょう。

しかし、ペトロの提案は却下されてしまいます。
なぜなら、キリストは神秘的な世界に留まるために、弟子たちを山に連れてきたわけではないからです。
キリストが弟子たちを引き連れて山に来たのは、キリストの死と復活を告げ知らせるため、つまり、イエスこそメシアであることを伝えるためでした。

信仰とは、山の上のような非日常的な神秘の世界を生きることではありません。
信仰は現実から逃避するためのものではなく、むしろ、現実に向き合うためのものです。
信仰生活は、日常生活なのです。