「である」という宣言文
私が通っていた大学のスクール・モットー(標語)が「地の塩、世の光」でした。
これはキリストが語った「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」という言葉から来ています。
ここでキリストが言っていることは「地の塩、世の光になりなさい」ということではありません。
キリストはこの言葉を命令としてではなく「地の塩、世の光である」と、人々に力強く宣言したのです。
キリストがこの言葉を語ったのは山の上でのことでしたが、そこに集まっていたのは、キリストの後に従って、山の上まで付いてきた弟子たちや多くの人々でした。
ですので、キリストについて行きたいと願った者たちに対して、キリストが「地の塩、世の光である」と語ったのであり、そう考えると、この言葉は、時代や場所にかかわらず、キリストについていきたいと願う人々に、こう問いかけている言葉でもあります。
「すでに地の塩、世の光とされた者として、塩として、光としてどのように生きていくのか」
キリストが言う「塩としての生き方」「光としての生き方」とはどのようなものでしょうか?
かけがえのない塩と光
「地の塩、世の光」という言葉から、まず一つ言えることは「私たちは意味のある存在である」ということです。
今ももちろん、2000年前のユダヤにおいても、塩や光というのは、とても大切で貴重なものでした。
塩というのは、世界最古の調味料だと言われています(お酢という説もあり)。
特に古代の世界においては、塩というのはとても高価なもので、お金の代わりに使われていたり、役人や兵士の給料として支払われていたとも言われています(諸説あり)。
光というのは、電気が発明されるまでは太陽や火によってもたらされていたものであり、電球の発明によって世界が大きく変わって行ったことは、この歴史が証明しているところです。
これら塩や光の起源はどこにあるかというと、聖書は神様によって造られたものであると伝えています。
旧約聖書の創世記1章を見ると、神様が初めに語った言葉として出てくるのが「光あれ」という言葉です。
神様が暗闇の中に光(太陽)を与えるところから、この世界は始まりました。
また、塩というのは、海水に混じっているものを取り出したことで生まれたものですが、創世記1章を見ると、海は、神様が二番目に語った言葉である「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」という言葉によって造られたものです。
このように見ると、塩も光も神様によって与えられたものであり、人類の歴史には欠かすことのできないものとして、今の時代まで存在し続けてきました。
ここから言えることは、キリストが「塩と光である」と言われた私たちは、神様から造られた大切な存在であるということです。
一人一人がかけがえのない存在であり、意味のある存在なのです。
塩に求められるたった一つのこと
「地の塩、世の光」という言葉から、もう一つ言えることは、塩と光は「地」と「世」にあって初めて意味のある存在となるということです。
キリストは単に「あなたがたは塩である、光である」と言ったのではなく、「あなたがたは地の塩である、世の光である」と言われました。
塩はこの地においての塩であり、光はこの世においての光だということです。
キリストが語った言葉の中には、「何の役にも立たない」「外に投げ捨てられる」「人々に踏みつけられる」(13節)という厳しい表現の言葉が含まれています。
また、16節では「人々が、あなたがたの立派な行いを見て…」という言葉があります。
これらの言葉を聞くと「世の中で立派に生きなさい」「成功しなければ何の意味もない」「能力のない者、失敗ばかりの役立たず者は、外に投げ捨てられてしまうぞ」と語っているようにも聞こえますが、キリストは、そのように私たちを脅しているわけではありません。
キリストの言葉は「塩に塩気がなくなれば」という言葉を前提にして語られていることに注目してください。
キリストが塩に対して求めていることは何でしょうか?
それは「塩気がある」ということです。
もし、塩に塩気がなくなれば、塩としての役割を失ってしまい、その塩は誰からも必要とされなくなるでしょう。
ただ考えてみると「塩気がない塩」というのは、実際には存在しません。
塩から塩気がなくなった時点で、それは塩でもなんでもなく、ただの白い粉です。
反対に言えば、塩が塩であるためのたった一つの条件は「塩気がある」ということです。
それでは、この塩気とは何を意味しているのでしょうか?
この地とこの世において
このことを理解するために大切なことは、キリストがこの言葉をどういう相手に向かって語っているかということです。
今、キリストの言葉を聞いているのは、キリストに従い始めた弟子たちやその他大勢です。
ペトロやヤコブなど、弟子たちの多くは、それまで漁師として生活していた、ごく普通の人たちです。
また、キリストを追いかけて山の上まで付いてきた人々は、キリストの噂を聞いて、病気や体の不自由さを抱えていた人々や彼らの周りにいた人々でした。
つまり、キリストが語っている相手というのは、ユダヤにおいては何の力もない人々でした。
キリストが、当時のユダヤ社会において、何の権力も影響力も持っていなかった人々に対して語ったということを考えると、ここでキリストが伝えようとしているメッセージは「世の中で立派に生きて、成功しなさい。そうでない者たちは、この社会から取り残されてしまうぞ」というようなことではありません。
キリストは、人々の能力や影響力に目を向けて「あなたがたは塩である、光である」と言われたわけではありません。
塩が塩気を保つために、光が光であるために求められるたった一つのことは「地において」「世において」ということです。
塩は何かに溶け込むことによって、また、光は暗闇の中に置かれることによって初めて、それぞれの役割を果たすことができます。
つまり、地の塩、世の光とされた者たちに期待されていることは、この世界、この社会の中で生きていくということなのです。
失われたものを取り戻す
この世界は神様が造った世界であり、人間が築いてきた世界でもあります。
だから、世界には神様が与えてくださっている素晴らしさと同時に、人間の罪がもたらしている痛みや悲しみもあります。
そういう世界において、私たちはどう生きるのかということが問われています。
そういう世界において、私たちが果たすことのできる役割とはどのようなものでしょうか?神様が造られた世界から失われてしまっているものとして、大きく2つのものが挙げられます。
一つは、造り主である神様という存在、もう一つは、人間の尊厳です。
2000年前のユダヤは、律法というルールが信仰の中心になり、神様が失われていたように、今の時代、特にこの日本においては神様という存在がよくわからなくなってしまっています。
神様を失った世界からは、それに伴って、人間の尊厳も同時に失われていきました。
2000年前のユダヤでは、病人や体の不自由な人たちは、軽蔑され、ぞんざいに扱われていましたが、今の時代も、多くの問題というのは、人間の尊厳を軽んじることから生じます。
この失われているものを取り戻すことこそ、この世界に生きる塩と光に与えられている大きな役割です。
そこで必要となるものは、特別な能力や影響力ではありません。
すでに「地の塩、世の光」である私たちにとって大切なことは、この世界において、神様と共に、隣人と共に生きていくということなのです。
「共に生きる」ことこそ、人間が人間らしく生きていく道なのです。