クリスマスの物語
先週のクリスマスでは、夕方にろうそくの火の中で、キャンドルライトサービスを捧げました。
12月は、1年の中で太陽が出ているのが短い時期なので、17時くらいになると外はかなり暗くなります。
そういう意味で、12月は光が煌々と輝く季節と言うこともできます。
なぜ光は輝くことができるのでしょうか?
光が輝いて見えるために最も大切なことは何でしょうか?
それは、光自身の輝きと同時に、そこが暗闇であることです。
暗闇の中に光がある時に、光は初めて輝いて見えるのです。
聖書の中で、キリストのことが「光」だと言われているが、キャンドルライトサービスの中で灯したキャンドルの光は、キリストを象徴するものです。
キリストが光として輝いているのは、そこに暗闇があるからです。
実は、クリスマスの光の裏には、闇があります。
聖書が伝えているクリスマスの物語は「暗闇」の中で起こった出来事でした。
キリストが生まれた2000年前のユダヤは、真っ暗闇の世界でした。
マリアが、イエスをお腹に宿していた時、ローマ皇帝は、ローマが支配している領土のすべての住民に対して、住民登録をするようにとの命令を下しました。
その主な目的は、戸籍を整理して、民衆から税金を徴収するためでした。
この時マリアは、ヨセフと婚約中で、イスラエルの北の方にあるナザレという町で暮らしていましたが、住民登録は、自分の町で行わなければなりませんでした。
それで二人は、今いるナザレから、ヨセフの家系が築かれたベツレヘムという町まで行くことになりました。
ベツレヘムは、イスラエルの南の方にあって、ナザレからは、直線距離で100km以上も離れています。
当時は、道路もあまり整備されていなかった上に、イスラエルはただでさえ砂漠地帯です。
そのため、妊娠中のマリアが、ナザレからベツレヘムまで移動することは、マリアとお腹の中にいる子供の命に関わる、とても危険なことだったのです。
そのような危険が伴う中で、二人がちょうどベツレヘムに滞在している時に、マリアは産気づきました。
それでとりあえず、すぐに子供を生める場所を探したが、その時は、住民登録をするために、他にも多くの人々がベツレヘムにやってきていたので、二人が泊まることのできる場所はなかなか見つかりませんでした。
結局、二人が子供を産むために辿り着いた場所は、家畜小屋でした。
マリアはそこで無事に子供を生むことができ、生まれてきた子供は、家畜小屋の飼い葉桶に寝かされました。
これが、聖書が伝えているクリスマスの物語です。
クリスマスの真実
この物語の中には、クリスマスからイメージされる楽しさやキラキラした感じは一切ありません。
ヨセフとマリアの二人が置かれていたのは、まさに、暗闇の中でした。
二人は、出産という人生の一大事の中で、辛く悲しいこの世の現実の中にいました。
こういう暗闇の中で、二人は何を感じていたでしょうか?
おそらく二人は、子供が生まれそうなマリアのことを、誰も気にかけてくれないことへの切なさを感じていたことでしょう。
初めての出産を家畜小屋で迎えなければならなかったことへの不安があったでしょう。
生まれたばかりの我が子を、不衛生な飼い葉桶に寝かせてあげることしかできない悲しみがあったでしょう。
ローマという国家権力の前に、ただ服従しなければならない理不尽さを感じていたことでしょう。
ヨセフとマリアの二人にとって、まさにそこは、暗闇の世界でした。
このように、クリスマスの物語というのは、決して、美しくあたたかい世界で起こった感動的な話ではありません。
そこにいたのは、家畜小屋の中で、生まれたばかりの幼子を抱いているマリアと、その横にただいることしかできなかった夫のヨセフです。
これが、クリスマスの真実です。
暗闇の正体
二人が置かれていたこの暗闇は、一体、どこから来たものなのでしょうか?
この暗さの正体とは何なのでしょうか?
当時、二人がいたユダヤを覆っていた暗闇は、人間の罪が権力と結びついたことによってもたらされたものでした。
その当時、ローマは破壊と殺戮を繰り返しながら、その勢力を拡大し、地中海世界一体を掌握していました。
当時のユダヤは、このローマ帝国によって支配されており、必然的に、暗闇の世界になるしかありませんでした。
この世界に暗闇を生み出す大きな原因の一つが、ここにあります。
世界の歴史を見てみれば、権力をもった人間が多くの暗闇を生み出してきたことがわかります。
国家という権力で言えば、昨年2月から続いているロシアによるウクライナ侵攻が挙げられますし、最近ではガザのハマスとイスラエルの紛争があります。
また他にも、独裁的な軍事国家であるミャンマーやアフガニスタン、北朝鮮や香港などでも、国家権力によって人々が虐げられている現実があります。
そういう国で生きる人々にとって、国家権力というのは絶対のものであり、正当な主張が通用しない暗闇の世界です。
また、この問題は、決して国家という大きな単位に限られたものではありません。
私たちの身近なところでも、同じことが起こっています。
親が子供に対して、先生が生徒に対して、上司が部下に対して、不当に権力を振りかざすならば、そこでは虐待やハラスメントといった問題が起こり、そこは、暗闇の世界となります。
このように、世界の暗闇というのは、すべて人間が作り出しているものです。
社会を暗くしているのは、結局は、私たち人間なのです。
そこにあるのは、自分さえ良ければそれでいいという思いであり、人間を物のように扱う冷たい心です。
あらゆる関係が歪んでいった
それでは、なぜ人間はそのように、暗闇を生み出す存在になってしまったのでしょうか?
聖書は、この世界に暗闇が広がっていったことについて、人間が神様を見失ってしまったからだと教えています。
世界ははじめ、混沌とした闇の中に置かれていました。
神様は、暗闇に覆われていた世界に「光あれ」と言って、そこから天地万物を創造しました。
光の創造から始まり、太陽や月、空や海と地、植物や動物、そして、最後には人間が造られました。
このようにして、神様は混沌とした暗闇の世界に、秩序を与えていきました。
神様が天地万物を創造したという出来事を見ると、あることがわかります。
それは、神様がおられるところ、神様が働かれるところからは、混沌や暗闇が追い出されていくということです。
そして、暗闇の世界が光の世界へと変わっていくということです。
聖書の創造物語が伝えていることは、神様が暗闇を光の世界へと変えられたということです。
しかし、この光の世界が、再び暗闇の世界へ逆戻りしてしまう出来事が起こりました。
アダムとエバの二人は、神様から独立する道を選び、自分たちなりに生きる道を選択しました。
つまり、神様が造られた光の世界から、創造主である神様を追い出してしまったのです。
それによって、この世界はどのように変わっていったでしょうか?
自分なりに生き始めた人間は、お互いを攻撃し、否定し合うようになりました。
それにより、人々は争い合い、お互いに仕え合うのではなく、支配し合う関係へと変わってしまったのです。
この世界から神様を追い出したことによって、この世界は神様を見失ってしまいました。
それによって、世界からは光が消え、再び、暗闇の世界へと転落していったのです。
このように、暗闇の正体は、この世界から神様を追い出してしまったことにあります。
神様との本来の関係が歪んでしまったことにより、人間同士の関係も歪んでいきました。
歪んだ関係性ということが、聖書が言っている人間の罪です。
希望の光
クリスマスというのは、人間の罪によってもたらされた暗闇の中に、イエス・キリストが光として生まれたという物語です。
父なる神様は独り子であるイエスを、2000年前のユダヤという暗闇の世界に送り込みました。
イエス・キリストは、ローマという国家権力に苦しむユダヤの中に、また、家畜小屋という薄暗く不衛生な場所に、人間として生まれて来ました。
このことは、何を意味しているでしょうか?
それは、神様は、人間が作り出した暗闇の世界を、まだ見捨ててはいないということです。
辛く悲しい現実に直面し、暗闇の世界で生きる私たちのもとにキリストが来てくださったということは、神様は今、暗闇の中で必死に生きている私たちと共にいることを選んでくださったということです。
福音書の中で、このように語ったヨハネは、この言葉を、創世記の創造物語に重ね合わせて書いています。
暗闇の世界に「光あれ」と言って光を造り、神様がこの世界に秩序を与えていったように、神様は暗闇の世界に再び秩序を与えるために、2000年前に、イエスという光を送りました。
イエスが暗闇の中に凸してきたのは、暗闇を作り出している私たち人間が、再び、光の世界で生きるようになるためです。
もちろん、イエス様が生まれたことで、すべての暗闇が追い出されたわけではありません。
人間が作り出す暗闇の世界は、この世に人間が存在し続ける限り、この後も続いていきます。
私たちは、その暗闇の中で痛みを感じ、苦しむこともあります。
それが、この世の辛く悲しい現実です。
しかし、クリスマスの物語が伝えていることは、人間が作り出した暗闇の中に、キリストが光として存在しているという事実です。
キリストの誕生によって、もはやそこは、単なる暗闇の世界ではなくなりました。
私たちが生きているのは、光であるイエス・キリストが共にいる世界です。
キリストという光は、暗闇の中を歩むためにすべての人に与えられているのです。
日々の生活の中で、生きづらさを感じることもあります。
孤独や不安を感じることもあります。
ただ、そういう世界にあっても、キリストが光として私たちのもとに凸してきたということは、この世界を回復へと導いてくださっているという希望のしるしです。
この希望の光が私たちの人生を照らしているのです。