牧師ブログ

「イエスの幸福論」

1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。3「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。4悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。5柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。6義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。7憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。8心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。9平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。10義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイによる福音書5:1-12)

幸福論に関するあらゆる論

今日の聖書箇所は、山上の説教と言われるキリストの教えの中で、初めに語られた八つの祝福(幸い)の教えです。
繰り返し「幸いである」という言葉が出てくるように、キリストは集まってきた群集と弟子たちに向かって、何が幸いであるのか、幸せはどこにあるのかということを教えました。

「幸せ」というのは、人類にとって永遠のテーマの一つです。
皆さんは、どんな時に幸福感に満たされているでしょうか?
食べること、遊ぶこと、仕事をすること、趣味に没頭している時など、何に幸せを感じるのかは、人それぞれですが、どんな人でも幸せを求める存在であるという部分は、全ての人に共通していることだと言えます。

この歴史上、多くの哲学者たちが「幸せ」について考えを巡らせてきました。
「三大幸福論」と呼ばれる三人の哲学者(スイスのヒルティ、フランスのアラン、イギリスのラッセル)によって書かれた書物があります。
それぞれが唱える幸福論の特徴は、以下の通りです。

ヒルティ:「常に神さまの側にいることが、変わらない幸せを約束している」というキリスト教信仰
アラン:「とにかく物事を前向きに考えよう」という楽観主義
ラッセル:「自分の関心を外に向けて、活動的に生きよう」という活動主義

どれが正しくてどれが間違っているということではなく、それぞれに真理が含まれていると思いますし、そこに幸せを感じる余地があります。

1990年代に入ると、哲学だけではなく、心理学の分野でも幸せに関する研究が始まりました。
一連の研究によって発見された心理学的な幸せについても、いくつか紹介します。

①欲望を満たす心地よさ(美味しいものを食べたり、お金を儲けたり)
②好きなことに没頭した充実感(スポーツ、芸術、趣味などの活動を通して得られるもの)
③意味を感じること(たとえ苦しくても、そこに意味を見出すこと)

こういうことからも、私たちは幸せを感じながら日々生きていることでしょう。
これらの幸せは否定されるべきものではなく、そういう幸せを感じられるように、私たちは神様によって造られています。
罪を犯したり、誰かを傷つけたりするのでなければ、何かに幸せを感じられるということは素晴らしいことだと思います。

幸せの大原則

そういうことを踏まえて、それでは、聖書はどこに幸せがあると言っているのか、イエスの幸福論について見ていきみましょう。
5章の3節から10節まで、どういう人々が幸いであるのか、キリストは語っています。
キリストは「心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人」について、彼らは幸いであると言っています。

この幸せな人リストを見ると、憐れみ深い人や心の清い人、平和を実現する人が幸せだというのは、なんとなく理解ができる気がします。
ただ問題は、心の貧しい人、悲しむ人、迫害される人という否定的なニュアンスで書かれている人々です。

普通の感覚からすれば、貧しさや悲しみ、迫害という苦しみは、幸せという言葉とはリンクしません。
それにも関わらず、なぜキリストはそのような人々のことを幸いだと言っているのでしょうか?

キリストはそのように言える理由について、3節から10節までのそれぞれの節の後半部分で語っています。
そこを見ると「天の国はその人たちのものである」とか「その人たちは神を見る」、「その人たちは神の子と呼ばれる」と言われています。
これらに共通していることは、神様の話だということです。

また、悲しむ人が慰められるとか、憐れみ深い人が憐れみを受けるということも、究極的に言えば、どんな場合でも慰めや哀れみを与えてくれるのは神様であるので、これも神様の話をしていると言えます。

キリストが幸いである理由について語っているところを見ると、キリストは幸いであることを明らかに神様との関係の中で語っています。
つまり、ここでキリストが幸せの大原則として語っていることは「どんな状況にも神様が共にいる」ということです。

安心感という名の幸せ

このことから、イエスの幸福論は「神様を信じる者は、幸せである」というシンプルな結論に至ります。
ただ、この結論は、神様を信じていない人からしたら、乱暴な答えに聞こえると思います。
「宗教は現実を見ていない」とか「独りよがりだ」とか言われると思いますので、もう少し噛み砕いて説明してみたいと思います。

なぜ神様を信じること、神様と共にいることが幸せだと言えるのでしょうか?
ここで、一つ確かなこととして言えるのは、神様ほど私たちの幸せを願っている方はいないということです。
神様は、この私を本当に祝福したいと願っておられる方です。
神様は私という存在を本当に大切に思っているのです。

高価なものを手に入れたり、知識や技術を得たり、世間の高い評価を得たりすることからも、確かに幸せを感じることはできます。
ただ、私という存在が受け入れられること、大切に思われることがなかったとすれば、そこにはやはり、不安や心配は常に付きまとうでしょう。

神様が共にいることを信じることは、すなわち、私は大切で必要な存在であることを受け止めることです。
これこそ、すべての人が心の底から求めてる「安心感」という名の幸せではないでしょうか。