最も多くの人に知られ、最も多くの人に誤解されているキリスト
マルコはこの福音書の書き出しを「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉から始めています。
この言葉は、マルコによる福音書のタイトルと言ってもよいでしょう。
福音というのは「よい知らせ(Good News)」のことで、マルコが知らせたいよい知らせとは、神の子であるイエス・キリストの話だということです。
クリスチャンでなくとも、多くの人がイエス・キリストという名前自体を知っていますが、名前の意味については、誤解されているように思います。
イエスというのはファーストネームですが、キリストというのはファミリーネームではありません。
キリストという言葉は肩書きを表す言葉で「油を注がれた者」という意味のギリシャ語です。
このキリストをヘブライ語に訳すと「メシア」となります。
つまり、イエス・キリストというのは、名前(イエス)と肩書き(キリスト)が一緒になった呼び方です。
すなわち「油を注がれた方、イエス」です。
油を注ぐという行為は、旧約時代に、王や祭司、預言者という役割を担った人々に対してなされたことです。
この行為には、神様から任命されたという意味が込められています。
単に人間がその人を選んだということではなく、神様から選ばれ、神様からその役割を与えられたしるしとして、油が注がれたのです。
マルコが伝えたかった「よい知らせ」とは、そのように、イエスという方が神様から選ばれ、メシアとして来られたということです。
マルコがこの福音書を書いた理由が、ここにあります。
ただ、マルコはこの事実を伝えるに当たって、いきなりイエス・キリストのことから書き始めたわけではありませんでした。
その前にマルコがどうしても取り上げておかなければならなかった人物がいました。
それが、洗礼者ヨハネという人です。
悔い改めのしるしとしての洗礼
キリストはユダヤ人の両親(ヨハネとマリア)から生まれ、いちユダヤ人として生活を送っていました。
子供の頃はユダヤ人としての教育を受け、大人になってからは仕事もしていました。
そんなキリストが、メシアとしての働きを始めたのは、30歳になった時でした。
その直前に、突如として、ユダヤ社会に現れたのが、洗礼者ヨハネでした。
マルコはヨハネの生い立ちについては、ほとんど明らかにしていません。
マルコがヨハネについて関心を持っていることは、ヨハネが旧約聖書に預言されていた人物だということです。
ヨハネのことを預言していたのは、BC7世紀にイスラエルに現れたイザヤという預言者です。
2、3節を見ると、イザヤはキリストの到来だけではなく、その前に、キリストの道を準備する者がいるということも預言していました。
その人物こそ、洗礼者ヨハネでした。
キリストの道を準備するために現れたヨハネが、その道を準備するためにまずやったことは、荒れ野で叫ぶことでした。
ヨハネが叫んでいたことは「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」でした。
ヨハネは、罪の赦し、悔い改め、洗礼のことを伝えていたようです。
おそらくヨハネは、このように叫んでいたのではないでしょうか。
「ユダヤの皆さん、よく聞いてください!悔い改めなさい!そうすればあなたたちの罪は赦されます!そして、洗礼を受けなさい!」
そうすると、ヨハネの叫び声を聞いて、多くの人々がヨルダン川にいるヨハネのもとにやってきました。
そして、人々は罪を告白し、ヨハネから洗礼を受けました。
洗礼というのは、キリスト教の専売特許ではなく、すでに当時のユダヤで行われていたことでした。
例えば、異邦人がユダヤ教徒に改宗するためには、洗礼を受けなければなりませんでした。
ただ、洗礼者ヨハネが授けていた洗礼は、改宗のための洗礼ではありません。
ヨハネは罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。
異邦人かユダヤ人に限らず、人々は、悔い改めのしるしとして洗礼を受けたのです。
罪は隠すものではなく、赦されるもの
5節に「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とありますが、これはオーバーな表現です。
多くの人が来たということを伝える表現で、実際には、ヨハネのもとに来なかった人もいたわけです。
どういう人がヨハネのもとに来て、どういう人がヨハネのもとに来なかったのでしょうか?
ヨハネは「あなたたちの罪は赦されます!」と叫んでいましたが、その声を聞いてヨハネのもとに来たのは「自分は赦される必要がある」と感じていた人です。
反対に、自分は罪を犯したことはない、赦される必要性を感じないという人は、どれだけヨハネの叫びを聞いたとしても、悔い改める理由はありません。
しかし、実際には多くの人々がヨハネのもとを訪れ、悔い改めの洗礼を受けていたように、自分は正しくない、赦される必要があると感じた人々が、当時のユダヤにはたくさんいたようです。
人間にとって、罪というのは隠したいものです。
できれば、誰にも知られたくないし、もし、バレそうになっても否定したいことです。
しかし、私たちにとって本当に必要なことは、罪を隠し通すことではなく、罪は赦されるということを知ることです。
赦しの中にある平安
3年前くらいに、国会議員だった河井克行と河井あんりという夫妻が逮捕された事件が、大きなニュースになりました。
彼らが犯した罪は、簡単に言えば、選挙で勝つために、不法にお金を使ったことでした。
逮捕された後の裁判で、しばらくは、無実を主張していましたが、1年ぐらい経った時に、それまで否定していた多くの罪を認めました。
なぜ急に罪を認めたのか、そのきっかけとなった出来事が当時のニュースでも報じられていました。
彼の母親はカトリックの信徒で、彼も6歳の時に洗礼を受けたそうです。
裁判が進む中で、一度、保釈された時がありましたが、その時に、20年以上交流がある教会の神父と電話で話したそうです。
その時、神父から『自分の内面に誠実に向き合ってください、最終的には神の前で誠実であることが第一です』と言われました。
この言葉で、自分が犯した罪を認める決意を固めたそうです。
おそらく、神父から電話を受けるまでは、国民からはもちろん、周りの人々からも攻撃され、否定され続けていたと思います。
人間というのは、人から否定されればされるほど、自分の本当のこと、本当の気持ちを隠すようになります。
ある程度は仕方ないにしても、彼も多くの攻撃を受け、存在を否定され続けたことで、罪を隠すことでしか、自分を守る手段がなかったのだと思います。
しかし、神父の言葉を聞いた時に、おそらく、初めて自分を受け入れてくれる存在を感じたのではないのでしょう。
自分が赦される、受け入れられるという思いを感じたからこそ、罪を認めようと思ったのではないでしょうか。
罪が赦されるということは、もちろん、犯した罪がなかったことになるわけではありません。
それでも、否定せずに受け入れてくれる存在を彼は感じたのでしょう。
イエス・キリストは2000年前に、この世界に来られましたが、このクリスマスの出来事は、神様がこの世界を見捨てていない確かなしるしです。
キリストが罪深い私たちと同じ人間となってくださったのは、私たちの存在を大切に考えておられるからです。
キリストの誕生は、私たちはすでに赦されていること、受け入れられていることを伝えるためだったのです。
この赦しの中にこそ、本当の平安があるのではないでしょうか。