牧師ブログ

「その日、その時は、だれも知らない」

【マタイによる福音書24:36-44】

36「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
37人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

A happy new year

今日から教会のカレンダーでは、新しい年になりました。
私たちが普段使っているカレンダーでは、1月になると新しい年になりますが、教会のカレンダーでは、今日が新年、ニューイヤーです。

教会の新年は、アドベントという期間から始まります。
アドベントというのは、到来という意味の言葉で、今日からクリスマス(12/25)までの間は、このイエスキリストの到来に心を留める期間です。

「キリストの到来」という時、聖書には2つの到来について書かれています。
1つは、2000年前にすでに起こったことです。
それが、クリスマスの出来事です。
2000年前のユダヤに、キリストが人間として生まれたのが、第1の到来です。

そして、2つ目の到来は、いつかははっきりとはわかりませんが、キリストが再びこの地に来られる再臨という出来事です。

この第2の到来であるイエス様の再臨について、聖書は大きく2つのことを明らかにしている。
1つは、キリストが再臨する時は、この世が終わる時であり、裁きがあるということです。
もう1つは、いつ再臨するのか、その時については父なる神様以外には、誰もわからないということ、つまり、キリストは突然やって来るということです。

その日は突然訪れる

今日分かち合うところは、この「突然やって来る」ということについて、キリストが語っている場面です。

再臨の日は、ある日、突然やって来るということについて、イエス様は旧約聖書のノアの時代の話を引用している。

人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。(37-39節)

37節にある「ノアの時」という言葉は、直訳すると「ノアの日々」という言葉です。
また、38節にある「洪水になる前は」という言葉は、「洪水になる前の日々は」です。

この「日々」という言葉が意味していることは「日常」ということです。
今年も12月に入り、もうすぐ1年が終わろうとしています。
いつも時が経つのは早いなと思いつつも、突然、12月がやってきて1年が終わるわけではありません。
1日1日を毎日積み重ねた結果、今日があるのです。

そのように、ノアの日々というのも、ノアが方舟に入る日まで、人々は食べたり飲んだりしながら、いつもと同じような「日常」を過ごしていました。
洪水が起こった日も、いつもと変わらない同じ日でしたが、そんな日常の中で、突然起こったのが、洪水でした。
その日、その時は、突然やってきたのです。

しかし、実はいつ洪水が起こるのかについて、神様はあらかじめノアに伝えていました。
創世記を見ると、洪水が起こったのは、ノアの生涯の第600年、第2の月の17日と記録されています。
その7日前の第2の月の10日に、神様はノアに箱舟に入るように言われましたが、それから7日後に雨が降り始め、第2の月の17日から40日間、雨が続き、洪水となったのです。

ノアは神様から洪水が起こると言われていたので、その日に備えて、日々、箱舟の製作に取り組んでいました。
その一方で、それ以外の人々は、第2の月の17日も、それまでと何ら変わらない1日を過ごしていました。
洪水が起こるまで何も気が付かなかったのです。

その日に備える

このように、昨日までと同じように、ごく普通に思える1日が突然、この世界を大きく変える1日になることがあります。

日本の中で起こったことについて言えば、たとえば、東日本大震災が起こった2011年の3月11日という日は、多くの人の人生を変え、この世界を変えました。
また、新型コロナウイルスのことが日本で大きなニュースとして取り上げられたのは、ダイヤモンド・プリンセス号というクルーズ船が横浜港に寄港した時であり、その日は、2020年2月3日という日でした。
それは、いつもと変わらない1日、日常の中で起こったことでした。

もしかしたら、キリストは今日、再臨するかもしれません。
ただ、そう言われたとしても、全然そんな気配がしないので、本当にキリストが再臨するのか実感が湧かないと思います。

でも、みんなが来るぞ、来るぞと言って、待っている時に、キリストは来るのではありません。
日常の中に、突然、キリストはやってくるのです。
そして、この世界は終わりを迎え、キリストの前に1人1人が立つことになります。

私たちはキリストがいつやってくるのか、再臨の日を知ることはできませんが、そんな私たちに対して、キリストはこのように教えておられます。

「だから、目を覚ましていなさい」(42節)
「だから、あなたがたも用意していなさい」(44節)

キリストは「目を覚まして、用意していなさい」と言っています。
私たちがやるべきことは、キリストがいつ来るのかを予測すること、事細かな未来を知ることではありません。
目を覚まして、その日に備えておくことです。

忠実に生きること

それでは、再臨の日に備えて、目を覚ましているというのは、具体的にどういうことでしょうか?
マタイによる福音書の24、25章には、終末と再臨のことが記されていますが、そこでキリストが繰り返し、話していることがあります。
それは、主人に忠実な僕の話です。

「10人のおとめたち」という話の中で、花婿を迎えに行った10人のうち、油を用意していなかった5人は、最終的に結婚式に参加することができませんでした。
この場面でおとめたちに求められていたことは、花婿がいつやってきてもいいように、備えておくということでした。

また、タラントンのたとえでは、主人が旅に出かける時に、僕たちの力に応じて、タラントンを預けましたが、この時、主人が僕たちに求めていたことは、それぞれ与えられたものに忠実であるということでした。
この話の中で、「忠実な良い僕だ」という主人の言葉が何度も出てくるように、僕に求められていたことは主人に忠実であるということでした。

つまり、再臨の日に備えるということは、主人に忠実な僕として生きることです。
私たちに求められていることは、主人に対する忠実さなのです。

私たちに求められていることは、どれだけ高い能力やスキルを身につけているのか、立派な成果を出して、成功したのかということではありません。
ただ、主人である神様に忠実に生きているのかどうかということなのです。

忠実な僕は、主人の思いを大切にします。
主人が願うこと、任されていることを行おうとします。
簡単に言えば、忠実な僕は主人を愛します。
主人を愛している僕は、主人の帰りを待つのです。

そのように忠実であることが求められているのは、私たちの日々です。
大きな試験とか特別な仕事とか、大きな責任や役割を任されることもありますが、忠実であることが問われているのは、あくまでも日常です。

クリスチャンは日曜日に教会に集まって、礼拝を捧げます。
教会から取ってしまえば、それはもはや教会ではなくなりますが、ただ、クリスチャンが問われているのは、単に日曜日の忠実さだけでありません。
私たちに問われているのは、日々、どのように生きているのかということです。

そのように言われると、いつも緊張していないといけないような感じがするかもしれませんが、私たちはキリストの到来をビクビクしながら待つ必要はありません。
なぜなら、その日は裁きの日であると同時に、救いの日だからです。
この世界と私たちは今、回復に向かってゆっくりと進んでいますが、それが完成するのがキリストが再臨する時なのです。
やがてキリストが来られた時、全ては完成するのです。

今年のアドベントの期間、私たちは「目を覚ましていなさい」という言葉を心に留めて、キリストの到来を待ち望みましょう。