「あなたはメシアなのか?」
当時、ユダヤの中では、キリストに対する評価は真っ二つに分かれていました。
と言っても、その多くはキリストを否定的に見ていましたが、それでも中には「もしかしたらこの方が旧約聖書で預言されているあのメシアではないか」と考える人々もいました。
「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」とキリストに迫った人々も、そのような淡い期待を抱きながら、聞いたのでしょう。
このような問いかけがなされた背景には、そのときエルサレムで行われていた「神殿奉献記念祭」という祭りが深く関係しています。
この祭りの起源は、AD2世紀にまでさかのぼります。
当時ユダヤは、シリアによる支配を受けていた時期で、シリアの王アンティオコス4世によって、ユダヤのギリシャ化が進められていきました。
そのため、ユダヤからユダヤ教が徹底的に排除されていきました。
子供に割礼を施すことや神殿で礼拝を捧げることも禁じられました。
神殿の祭壇にはギリシャの神ゼウスが祀られ、異教の神々のために豚がいけにえとして捧げられました。
シリアの支配によって、ユダヤの伝統が失われていく中で、ユダヤ人は独立戦争を始めました。
その結果、ユダ・マカバイという人物が率いる軍隊がシリア軍を打ち破り、ユダヤはシリアから独立することができました。
ユダヤの神殿から偶像が取り除かれ、再び神様に捧げる儀式を執り行いました。
この時のことを記念して祝われるようになったのが、神殿奉献記念祭です。
この祭りには、ユダヤ民族の解放と礼拝の自由の回復という重要な意味が込められているのです。
しかし、その後、今度はローマという国の支配下にユダヤは置かれることになりました。
そのため、1世紀前後のユダヤにおいては、ローマからの解放が人々の切なる願いとなったのです。
それで、神殿奉献記念祭の時期になると、人々は旧約聖書で預言されているメシアが現れ、ローマからユダヤを独立させてくれるのではないかという気運が高まりました。
それで、ユダヤ人たちは、キリストに向かって「あなたはメシアなのか、そうじゃないのか。はっきり言ってくれ。」と迫ったわけです。
ユダヤ人たちの問題
これに対してキリストは、「そうだ、私こそあなたがたが待ち望んでいるメシアだ!」というようには答えませんでした。
ここでキリストが問題にしていることは、人々がキリストの声に耳を傾けようとしなかったその姿勢についてです。
人々の関心は、単にメシアが来ることではありませんでした。
人々が願ったのは、何よりもローマからの解放でした。
そのため人々の思いというのは「イエスは自分たちの要求に応えてくれるメシアなのか」というところにありました。
多くのユダヤ人たちは、自分たちの要求を突き告げるばかりで、キリストの声に耳を傾けることはありませんでした。
こういう高慢な態度について、キリストはここで指摘しておられるのです。
そのようなユダヤ人に対して、キリストは「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」と言われました。
神様に何かを願ったり期待することは当たり前のことですが、それはそれとして、まずキリストは何と言っておられるのか、その声に耳を傾けて欲しいと願っておられるのが神様です。
語る神様がいて、聞く私たちがいる。
ここに信仰が生じるのです。
永遠の命の約束
キリストはユダヤ人に対して、ご自身がメシアであるかどうかについては、はっきりと応えませんでした。
ただその代わりに、キリストはご自身がどのようなメシアであるのか、明らかにされました。
ここには、聖書を通して神さまが私たちに語っておられる素晴らしい約束があります。
それは、キリストの声を聞き分ける者には、永遠の命が与えられるというものです。
永遠の命というのは、28節によると、決して滅びることなく、キリストの手から奪われないことです。
パウロはローマ書の中でこのように語っています。
人間にとって誰も打ち勝ったことのない最強のラスボスである「死」でさえも、私たちを神さまから引き離すことはできないのです。
キリストの声に耳を傾ける時、天国に至るまで、永遠に神とともに生きる命が与えられるのです。