牧師ブログ

「互いに愛し合いなさい」

31さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。32神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。33子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。34あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13:31-35)

理想に過ぎない教え?

キリストが弟子たちと最後の夜を過ごしていた時、弟子たちにこう言われました。

「互いに愛し合いなさい」

この言葉は聖書の中でもよく知られている言葉で、キリスト教というと「愛の宗教」と言われるように、愛し合うというのは、聖書の中心的なメッセージの一つです。

「愛し合いなさい」という言葉を聞いた時、人々の反応は、大きく二つに分かれるように思います。
一つは「その通りに愛し合えれば素晴らしいな」という肯定的な反応です。
互いに愛し合い、受け入れ合うことができるのなら、あらゆる紛争や軋轢も解決に向かうでしょう。

もう一つの反応は「そんなの理想に過ぎない。現実はそんな甘いもんじゃない」という否定的なものです。
もしかしたら、クリスチャンの中には、この言葉を実践したいと思いながらも、そうはできない自分を責めたり、落ち込んだりした経験をしたことがある人がいるかもしれません。

なぜキリストは、十字架にかかる前夜、弟子たちと共に過ごした最後の時に、互いに愛し合うように教えたのでしょうか?
互いに愛し合うことは、本当にただの理想に過ぎないことなのでしょうか?

死ぬことが栄光?

最後の晩餐の夜、弟子たちにとって、これが「最後」になるとは思いもしないことでした。
ただ、その中で一人だけ、他の弟子たちとは違う思いでその場にいた人物がいました。
それが、ユダという弟子です。
ユダは十二弟子の一人として、これまでキリストに従ってきましたが、この時、すでにキリストに敵対するグループに、銀貨30枚と引き換えに、キリストを引き渡す約束をしていました。

最後の晩餐の場で、キリストは十二弟子の一人に裏切られること、そしてその人物がユダであることを明らかにされました。
そうするとユダは、その場から出て行ってしまいました。
これによって、キリストが逮捕されること、そして、逮捕されて死に引き渡されることが決定的となったのです。

キリストにとって、側近とも言える信頼していた十二弟子の一人に裏切られたことは、とてもショッキングで受け入れ難いことだったでしょう。
しかし、その時キリストはこう言われました。

「今や、人の子は栄光を受けた」

ここで人の子というのはキリストのことです。
キリストは自身の死が決定的になった時、それは栄光だと言ったのです。
普通に考えれば、弟子に裏切られて殺されることは、敗北者となることです。
それにも関わらず、なぜキリストはそれを「栄光」だと言ったのでしょうか?

屈辱まみれの十字架の死

神様にとっての栄光と私たちが考える栄光は大きく異なります。
栄光というと似ている言葉に栄誉とか名誉という言葉があるように、普通、栄光というのは何か素晴らしいものを受けることによって得られるものです。

しかし、キリストは全てを奪われ、全てが終わってしまう時に栄光と言われました。
これが示していることは、キリストの栄光というのは、何かを受けることによってではなく、与えることによって表されるということです。

この後キリストは、極悪人を公開処刑するための十字架の上で死ぬことになります。
そのように死ぬことは、神の子であるキリストにとっては、とても受け入れ難く、屈辱的なことです。

しかし、キリストはこの十字架を通して、私たちに対する愛を示してくださいました。
キリスト自身は、十字架によってあらゆるものを失ってしまったかもしれませんが、それによって、私たちに対する愛を与えてくださいました。

つまり、キリストの栄光というのは、受けることではなく、与えること、しかもご自身の命を与えることによって表されたのです。

それでキリストは弟子たちに言われます。
「互いに愛し合いなさい」
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と。

新しい掟として

キリストはこれを新しい掟として教えました。
ただ、ユダヤにおいて愛するということは、キリストが初めて教えたことではありません。
ユダヤ人が大切に守り行っていた律法の中心的な教えが、愛することでした。

律法が記されている旧約聖書のレビ記19章18節に、こう書かれています。
「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」

これはキリストが地上に生きた時代の1000年以上も前にイスラエル人に与えられたものです。
そうだとすれば「互いに愛し合いなさい」というキリストの教えのどこが新しいのでしょうか?

律法とキリストの教えを見比べてみると、一つ大きな違いがあることに気がつきます。
レビ記では、愛することの前提は「自分自身を愛するように」ということです。
それに対してキリストは「わたしがあなたがたを愛しように」と言っておられます。

つまり、律法では「自分が自分を愛する愛(=自分の愛)」が土台となっていたのに対して、キリストは「キリストが私たちを愛する愛(=キリストの愛)」によって、愛し合うことを求めたのです。

自分の愛、人間の愛には限界があります。
信仰歴数十年のクリスチャンでも、酸いも甘いも経験した牧師でもそうです。
だからこそ、「互いに愛し合いなさい」という教えを聞いた時、私たちが何よりも覚えるべきことは、私たちに対するキリストの愛です。
「聖書の通りに愛さなきゃ」「愛せない自分はダメだ」と自分を追い込む必要はもうありません。
そんな私たちのために、キリストは命を捧げてくださったからです。
キリストが教えた新しい掟の中心は、実は「互いに愛し合いなさい」ではなく「私はあなたがたを愛している」という神様の愛なのです。