牧師ブログ

「わたしを何者だと言うのか」

27イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。28弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」29そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」30するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。(マルコによる福音書8:27-30)

イエスとは何者?

神様に対する信仰というのは「イエスとは誰であるのか」という問いに、どのように答えるかによって明らかにされます。
イエスの十二弟子の筆頭であるペトロは、イエス様から「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と聞かれた時「あなたは、メシアです」と答えました。

「メシア」というのは、日本語では「救い主」と訳される言葉ですが、当時のユダヤは、異教徒ローマ帝国の支配下に置かれており、宗教的にも政治的にも、不自由な生活を強いられていました。
そのため、多くのユダヤ人は、ローマの支配から救ってくれる存在をメシアとして待ち望んでいました。

ただ、「あなたは、メシアです」というペトロの答えに対して、イエス様は「そうだ」と肯定することも、逆に「そうではない」と否定することもありませんでした。
イエス様はただ、自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められたのです。

これはどういうことでしょうか?
ペトロの答えは正しくなかったということでしょうか?
もちろん、そうではありません。
「イエスはメシアである」というのは、聖書の中心的なメッセージです。

それにもかかわらず、なぜイエス様はこの時、ご自分がメシアであることを公にすることを望まれなかったのでしょうか?
このことから「イエスはメシアである」「イエスは救い主である」という告白が何を意味するのか考えてみたいと思います。

イエス様に対する様々な見方

イエス様は弟子たちを率いてフィリポ・カイサリアという地方に来られた時、突然、弟子たちに対して「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられました。

当時、イエス様に対する人々の見方は様々でした。
人々は「洗礼者ヨハネ」とか「エリヤ」、「預言者の一人」などと考えており、イエス様についていろんな見方がされていたことがわかります。

ただ、これらの答えすべてに共通することがあります。
それは、天の神様によって、この世へと遣わされた存在であるということです。
多くの人々は、イエス様についてそのように肯定的に捉えていました。

現代においても、イエスキリストについて、肯定的に見える見方の方が強いと思います。
そうでないと、毎年クリスマスが、ここまで大々的にお祝いされることはないはずですし、キリスト教に関する絵画や音楽などの文化も、世に受け入れられることはなかったはずです。
このように、昔も今も、イエス様に対する理解は様々ですが、歴史上の偉大な人物とみなす向きは強いようです。

メシアとは??

 ただ、ペトロは、人々のそういうイエス様に対する見方を否定しています。
ペトロはイエス様に向かって「あなたは、メシアです」とはっきり答えているように、イエス様のことを単に聖なる存在とか偉大な人物というレベルでは見ていませんでした。

そこで問題となるのが、ペトロが待ち望んでいた「メシア」という存在についてです。
メシアというのは「油注がれた者」という意味のヘブライ語で、これをギリシア語に訳すと「キリスト」になります。
旧約時代のイスラエルでは、王となる人物は油を注がれることによって、正式に王として建てられました。
ダビデやソロモンのように、メシアというとイスラエルに軍事的な勝利や経済的な繁栄をもたらす英雄的な存在を言い、彼らのような存在が、メシアとして油を注がれた王でした。

しかし、ダビデやソロモンの後を継いだ王は、人々の期待にそぐわない王がほとんどでした。
それでイスラエルでは、現実の王に対する失望によって、将来現れる王に希望を託すようになったのです。

福音書を見ると、イエス様に病を癒してもうおうと来た人々の中で「ダビデの子」と呼んでいる人々がいます。
この呼び方には、イエス様こそ、ダビデの子孫として、ダビデの時代のように強いイスラエルをもたらしてくれるメシアだという期待があったからでしょう。

つまり、ペトロが言った「あなたは、メシアです」という言葉は、「あなたこそ、イスラエルが長い間待ち望んでいた救い主です。私たちはあなたにこの国を託します。あなたに期待します。」という告白だったのです。

まだ知らないメシアの姿

フィリポ・カイサリアには、ローマ皇帝アウグストゥスに捧げられた神殿があり、そこではアウグストゥスは、武力によって平和を実現する「救い主」として崇められていました。

しかし、ペトロは「本当のメシアはローマ皇帝なんかではない。イエス様こそ、神様が遣わしたメシアなのだ」という信仰を持っていたのです。

このペトロの告白を聞いた時、イエス様は意外な反応をされました。
御自分のことを誰にも話さないようにと、弟子たちを戒められたのです。

なぜイエス様はそのように言われたのでしょうか?
それは、確かに弟子たちは、イエス様のことをメシアであると信じていたかもしれませんが、イエス様がメシアであることの本当の意味をまだ理解できていなかったからでしょう。

これまで弟子たちが見てきたイエス様は、主に奇跡を起こすイエス様です。
しかし、それがメシアとしてのすべての働きではありませんでした。
弟子たちには、まだ見るべきメシアとしての姿があったのです。
それこそ、イエス様がこれから向かっていくエルサレムで起こること、つまり「十字架」と「復活」です。

期待外れのメシア?

ペトロは他の弟子たちは、イエス様が十字架にかかって殺されるメシアであることを知らなければならなかったのです。

私たちがもし、イエス様のことをメシアであると告白するとしたら、それは単に自分の期待に答えてくれるメシアとして見ることはできません。
イエス様の十字架と復活の部分を無視して、神様が遣わした真のメシアの姿をはっきりと見ることはできないからです。

ある意味、イエス様はご自分の弟子たちも含めて、ユダヤの民の期待に応えてくれるという支持を得られなかったからこそ、最後は人々に見捨てられ、十字架にかけられたと言えます。
簡単に言えば、イエス様は「期待外れ」だったのです。

しかし、イエス様の救いとは、私たちの期待通りに、思い通りに事が進むことではありません。
たとえ、期待外れのことが起こったとしても、思い通りに行かなかったとしても、十字架を見れば、私たちのことを命をかけて愛しておられることがわかります。
十字架に目を向ける時に、私たちと共に苦しみ、共に葛藤し、共に試練を乗り越えてくださるイエス様が見えるのです。
そして、そこからまた、神様と共に生きる恵みの人生が始まっていきます。