キリストの復活の確かさ
イエスキリストという名前を聞いて、多くの人がまず思い浮かべるのは、十字架であろう。
ただ、聖書はキリストが十字架で死んでそれで終わっていたとしたら、私たちは今もなお罪の中にいることになる、と教えている。
キリストの復活があったからこそ、罪からの救いがあり、この世界にクリスチャンと教会が存在しているのである。
クリスチャンたちが日曜日に教会に集まって礼拝を捧げているという現象自体が、復活の確かさと衝撃の大きさを表している。
もともとユダヤでは、律法の教えのもと、安息日である土曜日に集まり、礼拝を捧げていた。
ところが、キリストの復活を目撃した人々、それを伝え聞いて信じた人々は、日曜日に集まって礼拝を捧げ始めた。
それは、キリストが復活したのが日曜日だったからである。
律法中心の伝統的な文化に生きてきたユダヤ人のクリスチャンにとって、安息日である土曜日ではなく、日曜日に礼拝を捧げることは、律法に逆らうことである。
それにも関わらず、クリスチャンたちが日曜日に礼拝を捧げているという事実は、キリストの復活の確かさとその衝撃をよく表している。
死んで葬られたキリスト
それでは、キリストが復活したという事実は、私たちの人生とこの世界にとって、どのような意味があるのだろうか?
キリストは十字架で殺された後、墓に葬られた。
日曜日の早朝に、三人の婦人たちがキリストの遺体に油を塗るために、その墓を訪れた。
ユダヤでは、人が死ぬと遺体が腐るのを防ぐため、その体に香料を混ぜた油を塗って、さらに遺体を布に包んでから、墓に納める。
しかし、キリストが十字架で殺されたのは安息日の直前であったため、本来するべき処置が十分にできなかった。
そのため、三人の婦人たちは安息日が明けた日曜日の朝早くに、キリストの遺体に油を塗るため、墓に向かったのである。
ただ、この時彼女たちには、一抹の不安があった。
ユダヤのお墓というのは、岩に横穴をあけた洞窟のような作りになっていて、墓の入り口には穴を塞ぐための石を置く。
キリストが埋葬された墓の入り口にも、大きな石が置かれていたのである。
婦人たちは墓を塞いでいる石をどうするべきかわからないまま、とりあえず墓に向かった。
三人の婦人が、キリストの遺体に油を塗るために墓に向かったという事実、そして、墓を塞いでいる石について心配したことは、何を表しているだろうか?
それは、彼女たちが会いに行ったキリストというのは「十字架で殺され、墓で眠っているキリスト」だったということである。
それは、墓の中に閉じ込められ、死という力に支配されたキリストであった。
しかし、聖書が伝えているのは、墓に納められているキリストではなく、死からよみがえったキリストである。
死からよみがえったキリスト
三人の婦人たちが墓に着くと、彼女たちはキリストの遺体とご対面することは適わなかった。
なぜなら、キリストは復活していたからである。
婦人たちが墓に着くと、墓を塞いであった石はわきへと転がされていた。
そして、墓の中にいた若者から「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」と聞かされた。
それを聞いた時、彼女たちはどう反応しただろうか?
キリストの復活を喜ぶどころか、むしろ、恐れに震え、正気を失い、その場から逃げ去ったのである。
なぜなら、彼女たちが墓に会いに来たのは「死んでいるキリスト」だったからである。
墓に葬られたキリストに会いにきた婦人たちは、空の墓を見ながら、キリストが復活したことを知ったのである。
この一連の出来事は、キリストを信じるということが、どういうことであるのかをよく表している。
キリストを信じるというのは「キリストはもう死んでしまったけど、あの方の生き様や語られた教えにならって生きていこう」とすることではない。
聖書が伝えたいことは、そういう「過去の人キリスト」ではなく「死からよみがえり、今も生きておられるキリスト」である。
つまり、キリストを信じることは、死から復活され、今も生きておられるキリストを信じることである。
キリストの復活がもたらすもの
それでは「死からよみがえり、今も生きているキリスト」を信じることに、どんな意味があるのか?
キリストの復活によって明らかにされたことは、キリストは死の力に閉じ込められるような方ではない、ということである。
死というのは、罪の結果としてもたらされるものであり、キリストが死んだのは人間の罪のためであった。
死んで墓に葬られたキリストというのは、罪と死という力に閉じ込められたキリストだと言えるが、そんなキリストが復活した出来事は、キリストが罪と死という力を打ち破ったことを意味する。
世界が創造されてから、人間は常にこの罪と死の力に翻弄されてきた。
罪によって、絶え間ない悲しみと苦しみが生じ、死によって、恐れと嘆きの中に陥れられていた。
罪と死に支配された世界というのは、希望のない暗闇の世界である。
そんな世界に、神さまご自身(キリスト)が人となって来られ、死んで復活されたという出来事が意味することは、神さまはこの世界を罪と死という力から救い出してくださったということである。
復活の力というのは、罪と死に打ち勝つ力であり、私たちを暗闇の世界から救い出す力である。
罪は、人を罪悪感や絶望感、または、自己正当化と開き直りの道へと誘うが、キリストは私たちを罪から救い出し、悔い改めと回復の道へと導かれる。
死は、人を恐れや虚無感へと誘うが、キリストは私たちに天国の命に至る希望を与えてくださる。
復活の力によって、私たちは罪に支配されたり、死に支配されたりする人生から解放されるのである。
ここに本当の自由と希望がある。