牧師ブログ

「イエス様の声が聞こえますか?」

暗闇の中に置かれる時

イエスキリストが復活したことによって、クリスチャンが誕生し、キリスト教という宗教が生まれた。
また、それに由来する音楽や芸術などのあらゆる文化も存在するようになった。

キリストの復活は、この世界の歴史において、大きなターニングポイントとなった出来事だと言えるが、復活したキリストに最初に会った人物は誰だったのか?
それは、マリアという女性であった。
このマリアは、キリストが十字架で殺された時も、その後、キリストが墓に埋葬される時も、ずっとキリストのそばに寄り添っていたキリストの弟子の一人である。

マリアはどのようにして、復活したキリストと出会うことになったのか?
マリアは、キリストが墓に葬られた後、遺体に防腐処置をするために、日曜日の朝、キリストの墓を訪れた。
マリアが墓の中を覗くと、なんとそこにあるはずの遺体がキレイさっぱりなくなっていた。

空になった墓を見たマリアは、墓の外で泣いていた。
マリアは、空の墓を見ながら、キリストが復活したとは考えることはできず、何者かによってキリストの遺体が奪われてしまったと思ったのである。

この時、マリアが流した涙には、いろんな感情が複雑に入り混じっていた。
愛するイエスを失ってしまった悲しみや虚しさ。
救い主として信じていた人が殺されてしまったことへの戸惑いや怒り。
十字架にかけられたイエスのために、何もしてあげられなかったもどかしさや無力さ。
これからどうしていけばいいのかという将来への不安や心配。
こういったいろんな感情が、キリストを失ったマリアの心を渦巻いていたのではないか。

私たちにも、マリアのように、何か思いがけない出来事が起こった時、自分の期待が裏切られた時、涙が止まらなくなる瞬間がある。
今、目の前で起こっている現実を受け止めることができず、絶望の淵へと追いやられていく。
人生には、そういうふうに、突如として暗闇の中に置かれる瞬間が確かにある。

実はもうそこにいます

それでは、マリアが暗闇の真っ只中にいたとき、キリストはどうしていたのだろうか?
実は、泣いているマリアのすぐそばに、キリストはいたのである。

マリアが、ふと後ろを振り返ってみると、ある一人の人がそこに立っていた。
実は、それが復活したキリストだったのだが、マリアはその人のことをお墓の管理人さんだと勘違いしていた。
もしかしたら、マリアはあまりにも泣きすぎて、涙で目が腫れてしまい、それがキリストだとわからなかったのかもしれないが、この時のマリアには、まさかキリストが生き返るなんてことは、思ってもみないことだった。

マリアが、すぐそばに立っているキリストに気がつかなかったように、私たちが暗闇の中にポツンと置かれている時、何かに絶望している時というのは、そばにキリストがいることがわからなくなってしまう。
「神様がいるとしたら、なんでこんなことが起こるのか?」
「なんで神様は、こうなることを許したのか?」
「一体、神様は今どこで何をしているのか?」
キリストを見失ってしまうことで、現実を受け入れられなくなってしまう。

しかし、私たちがその存在を感じることができなかったとしても、キリストはマリアのすぐそばに立っておられたように、私たちのすぐそばに立っておられる。
私たちの目には見えなかったとしても、心で感じることができなかったとしても、キリストは、私たちといつも一緒にいてくださるお方である。

神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。(ヘブライ人への手紙13:5)

自分の思い通りにいかない時、それは、キリストが共にいないことを意味するのではない。
良い時、悪い時、どんな時であっても、キリストは私たちと共にいてくださる。
今、自分が置かれている環境にキリストが共にいてくださるのであれば、私たちはただ、キリストと共にまた、ゆっくりとその歩み始めればいいのである。

耳を傾けてみると…

それでは、マリアが自分のすぐそばにキリストがいることに気づいたのはいつだったか?
キリストは泣いているマリアに対して「なぜ泣いているのか、誰を捜しているのか」と声をかけた。
マリアは、それがキリストだとは知らずに「あなたがキリストの遺体を運び去ったのなら、私が引き取るから返してほしい」と願い出た。

それを聞いたキリストは、マリアに向かって「マリア」と呼びかけた。
そうすると、マリアは振り向いて「先生」を意味する「ラボニ」と返した。
「ラボニ」というのは、いつもマリアがキリストを呼ぶ時に使っていた呼び名である。

マリアは復活したキリストの姿を見ても、それがキリストだと気づくことはできなかった。
マリアがキリストの存在に気がついたのはいつだったか?
それは「マリア」というキリストの声を聞いた時である。
「マリア」と呼びかけるキリストの声を通して、マリアは復活したキリストに出会ったのである。

2000年前は、実際に復活したキリストを目撃した人々がいたが、今の私たちには、神様という存在を目で見ることはできない。
ただ、神様が目に見えないからといって、それが神なんて存在しないという証明にはならない。
なぜなら、神様は「語られる言葉」を通して、この世界に神様のことを明らかにしておられるからである。

実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマの信徒への手紙10:17)

私たちは、聖書に記されている神の言葉、キリストの言葉を聞くことによって、神様が存在していること、その神様が私たちを愛していることを知ることができる。
だから、私たちはもうマリアのように、神という存在を探し回る必要はない。
すでに、キリストは私たちのそばに来てくださり、私たちに語りかけてくださっている。
自分の心をキリストが語る言葉に傾ける時、そこにおられるキリストに見、キリストに触れ、キリストの存在を確かに感じることができるのである。