牧師ブログ

「お前たちは生き返る」

1主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。2主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。3そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」4そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。5これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。6わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」7わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。8わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。9主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」10わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。11主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。12それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。13わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。14また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。

枯れ果てた骨

バビロンに連れて行かれてから、神様から預言者として召されたエゼキエルは、そこにいる捕囚の民に預言を語る働きをした。

ある時、エゼキエルは神の霊によって、ある谷の真ん中に連れ出された。
そこでエゼキエルが見たものは、多くの枯れ果てた骨だった。

この枯れ果てた骨が何を意味するのか、11節で明らかにされている。
神様はエゼキエルが見ている枯れ果てた骨について、それは、イスラエルの全家だと言われた。

バビロンに連れて行かれたイスラエルの民は、バビロンで祖国イスラエルの滅亡を知らされた。
捕囚の民にとって、イスラエルが滅びるということは、もう自分たちはイスラエルには戻る希望が失われる出来事だった。
さらには、神の民であるイスラエルが滅ぼされたということは、自分たちは神から見捨てられてしまったのではないか、という恐れを抱かせるものだった。

こういう状況下に置かれた捕囚の民が「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と嘆いていたのである。

主の言葉を聞け

こういう時、預言者は何を語ることができるのか?
捕囚の地で絶望に陥っているイスラエルの民に対して、何か語る言葉があるのか?

その時、神様はエゼキエルにこう言われた。
「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。」

神様は絶望する民に対して預言せよ、とエゼキエルに命じられた。
たとえ、あらゆる望みを失っていたとしても、その彼らに「主の言葉を聞け」と言うように、神様は命じられたのである。

それでは、神様はエゼキエルを通して、どういうことを民に伝えようとされたのか?
この時、絶望に陥っている民が聞くべき言葉とは、具体的にどのような言葉だったのか?

5これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。6わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」

神様は、わたしはお前たちの中に霊を吹き込むと言われた。
これは、神様が民に聖霊を与えるということである。
そして、民に霊が吹き込まれると、彼らは生き返り、神様が主であることを知るようになるのである。

ここで神様が伝えようとされたことは、枯れ果てた骨であっても、生き返ることができるという回復の希望であった。

神の霊によって

創世記2章に、人間の創造について書かれているが、神様は土(アダマ)から造られた人に、霊を吹き入れられた。
霊が吹き入れられた時に、人は生きる者となった。

これと同じように、捕囚の地で絶望する民は、神様の霊が吹き入れられることによって、生きる者となる、と神様は言われたのである。

実際にエゼキエルが神様から命じられたことを民に伝えると、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。
そして、骨の上には筋と肉がつき、それを皮膚が覆った。
そこに霊が入った時、人々は生き返り、自分の足で立ち、大きな集団となった。

このように、人が本当の意味で生きる者となるのは、骨と筋と肉に神の霊が吹き入れられることによってである。
つまり、人を生かすのは神様であり、神の霊が入ることで、人は初めて生きる者となるのである。

本来、枯れ果てた骨というのは、もう生き返るチャンスも方法もない、終わった存在である。
絶望の中にある人々に、何を語ったとしても、ほとんど意味がない。
それどころか、むしろその言葉によって、傷を与えてしまう恐れもある。

人が本当に絶望している時、崇高な言葉や教えというのは、何の意味もなさない。
枯れ果てた骨の前では、どんな言葉も「無力」である。

だからこそ、神様は言われる。
わたしがお前たちに霊を吹き込むと。
わたしがお前たちを生き返らせると。

このように、人は神の霊によって生きる者とされるが、この時、神の霊によって具体的に変えられるものがある。
6節と13節の終わりに「お前たちはわたしが主であることを知るようになる」とある。
神の霊を吹き入れられる時に、人は、神様が主であることを知るようになるのである。

捕囚の地にいる望みを失ったイスラエルの民に、霊が吹き入れられ、神様が主であると知ることにどんな意味があるのか?

普通、絶望した状態にある時、人が生きる者となるためには、状況や環境が変わらなければならないと考える。
捕囚の地にいる民の場合、バビロンから解放され、イスラエルへ戻ることができれば、生き返ることができるような感じがする。

しかし、捕囚の民が生き返るのは、帰還を果たしたからではなく、神の霊が吹き入れられる時である。
この霊によって、神様が主であること知る時、たとえ、祖国に帰還する希望が失われたとしても、それでも神様はイスラエルを見捨てていないということを知ることになる。
神様が主であるならば、どんな絶望的な状況に追い込まれたとしても、そこに神様が共にいることを認めるようになるのである。

目の前の現実は何も変わらない。
現実を見たら、どこにも希望を見いだせない。
でも、霊が吹き込まれ、神様が主であることを知るならば、人は生きる者となる。
ここに、状況に左右されない、誰にも奪われない、本当の希望がある。