牧師ブログ

「愛と信頼のささげもの」

イスラエル初代の王、サウルはアマレクという民族との戦いにおいて、主の言葉を退けるという罪によって、王位から退くことが決定的となった。
サウルが主の言葉を退けてしまったのは、一言で言えば不信仰によるものであるが、それは神様以上にサウルが影響を受けていたものがあったということである。
サウルの心を支配し、動かしていたものは一体何だったのか?

サウルの失敗

アマレクとの戦いにおいて、神様が命じていたことは「アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」(サムエル記上15:3)ということだった。

神様がこのように命じたのは、かつてイスラエルがカナンを目指して荒れ野を旅している間、アマレクがイスラエルに襲いかかり、隊列の後方にいた人々を攻め滅ぼしたからである。
アマレクとの戦いにおいて、サウルが求められたことは、容赦することなく、徹底的にアマレクを滅ぼし尽くすことだった。

しかし、サウルはこの戦いにおいて、アマレクの王を生け捕りにして、殺さなかった。
また、滅ぼすべき羊や牛を戦利品として、イスラエルに持ち帰ってしまった。
このように、サウルは、主の言葉を退けるという罪を犯してしまった。

それでサムエルは、サウルのことを厳しく戒めたが、それに対してサウルは弁明した。
自分は神様の命令通りにアマレクに出陣したし、アマレクを滅ぼしたんだから、主の御声に聞き従ったんだと。
そして、戦利品として、最上の羊と牛を持ち帰ったことについては、兵士たちの分け前にするわけではなく、神様にささげるためだったと釈明した。

サウルが言うように、この時、戦利品を持ち帰ったのは、欲に目が眩んでやったことではなく、神様にささげるという信仰によるものだった。
だからこそ、最上の羊と牛だけを持ち帰ったのであり、神様のためにやったことであれば、滅ぼし尽くさなくとも、むしろそれは良いことだとサウルは考えた。

確かに、神様にささげるために、最上のものだけは滅ぼさずに取っておいたというのは、いかにも信仰的で、敬虔そうな行為に見える。

しかし、この中にサウルの人間としての弱さが隠されていた。

100%の従順

サムエルは「反逆は占いの罪に/高慢は偶像崇拝に等しい」と言いながら、サウルがやったことは占いや偶像崇拝のように、神様に反逆する罪だと指摘した。
そして、主の言葉を退けたサウルは、王位から退けられると告げた。

私たちから見れば、サウルがしたことは、王位から退けられなければならないほど、重い罪には見えない。
なぜサウルは、王位から退けられることになったのか?
そのキーワードとなる言葉が「従順」である。

サウルだけでなく、イスラエルのリーダーにはみな、徹底的に神様に従順であることが求められた。
なぜなら、神様の計画は、イスラエルの民がカナンの地で祝福の源となり、イスラエルを通して、この地のすべての民族を救うことだったからである。
この計画を成し遂げるためには、イスラエルは80%、90%の従順ではなく、神様に100%従うことが求められた。

もし、現代の牧師が当時と同じ基準を求められたとしたら、誰も牧師であり続けることはできなくなってしまうかもしれない。
もちろん神様は、牧師が一度罪を犯したからと言って、一発退場を命じて、牧師から退けることはないと思うが、だからと言って、神様はイスラエルのリーダーに求めた従順の基準を緩くしているわけではない。

今の時代は、ただ神様が牧師という立場から退けないだけであって、求められているものは昔と何ひとつ変わっていない。
神様は、いつの時代であっても、100%の従順を求めておられる。

だとしたら、イエス様がすべての罪を代わりに背負ってくださり、赦されたからと言って、私たちはある程度従順していれば、それで十分なわけではない。
結果として、何%くらい従順できたのかが大切なのではない。
「わたしは100%神様に従いたいです」
この信仰が神様が求めておられるものであり、神様の前にあるべきものである。

それでは、私たちが神様に100%従順するために、御言葉に聞き従うために、大切なことは何であろうか?

愛と信頼をささぐ

神様の御言葉に聞き従うことにおいて、大切になることは、神様を100%信頼していることである。
神様がイスラエルの王として、サウルに求めたことは、最上の牛や羊という高価ないけにえではなかった。
神様が本当に喜ばれるものは、神様への愛と信頼のいけにえである。

わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。(ホセア書6:6)

神様は私たちが神様のために「何をしたか」ではなく、まず、「神様を愛しているか」と聞いておられる。
イエス様が復活した後、ガリラヤ湖のほとりでペトロに問いかけられたことも「わたしを愛しているか?」ということだった。
神様が一番に喜ばれるのは、私たちの愛と信頼というささげものである。

この神様への愛と信頼という点において、サウルは乏しかった。
アマレクとの戦いの中で、サウルが主の言葉を退けてしまったのは、神様に対する思い以上に、人を恐れていたことが大きな原因だった。

サウルは最終的に「わたしは、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました。兵士を恐れ、彼らの声に聞き従ってしまいました。」とサムエルに告白している。
サウルがアマレクから戦利品を持ち帰ってしまったのは、兵士を恐れていたからだった。
サウルが主の言葉を退けてしまったのは、極端に人を恐れる心にあった。

人を恐れる大きな要因の一つは、自分の乏しさばかりに目を向けてしまうことにある。
「自分はだめだ」「自分はできない」「自分はふさわしくない」

ただ、そう言いながらも、実際のところは、人から自分のことを悪く思われたくないのが、人間の本心である。
そうすると結局、誰かの目によって支配され、神様ではないものに導かれ、従っていくことになる。

神様が私たちに求めていることは、何か大きなことを成し遂げることではない。
神様への愛と信頼に生きていることである。
これが土台になっている人の人生にこそ、神様の大きな御業があらわされていく。

人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は守られる。(箴言29:25)