牧師ブログ

「あなたがたに平安があるように」

19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。(ヨハネによる福音書20:19-20)

戦々恐々の再会

キリストが逮捕された時、十二弟子と呼ばれるキリストの中心的な弟子たちは皆、その場から逃げ去っていった。
キリストが十字架で殺された後、弟子たちはどのように過ごしていたのか?
キリストが殺された三日後、弟子たちは皆、家の中に鍵をかけて隠れていた。
なぜなら、ユダヤ人が怖かったからである。

師匠のキリストはユダヤ人たちから「十字架につけろ」と要求され続けたことによって、十字架刑に処された。
そうすると、今度は自分たちの方に矛先が向けられ、キリストと同じように殺されるのではないかと、弟子たちは考えた。
それで彼らは皆、ユダヤ人を恐れて、家の中に閉じこもっていたのである。
おそらく、キリストが逮捕されて以降、弟子たちは毎日、夜も眠れないほどに不安な日々を過ごしていたのだと想像できる。

そのように、弟子たちが恐れに支配されていた時、復活したキリストが彼らの前に現れた。
キリストは弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と告げた。
この言葉が、キリストが復活した後、十二弟子にかけた最初の言葉である。

この時のキリストと弟子たちの関係というのは、キリストが逮捕されて以降、すっかり変わってしまっていた。
それまでは、自分の仕事を諦め、家族を残してまでしながら、キリストに従っていた。
たとえ死ぬことがあったとしても、最後まで従うつもりだと、弟子たちは豪語していた。

しかし、キリストが逮捕され、殺されたことで、その関係はすっかり様変わりしてしまった。
弟子たちはキリストから逃げ、ユダヤ人を避け、恐れの中に留まっていたのである。

そういう相手と再会を果たしたとしたら、なんと声をかけたくなるだろうか?
普通だったら「なんであの時、逃げていったのか?」「今どういう気持ちでいるのか?」と問いただしたくなるものである。

キリストは「これがまさに、あなたたちの罪だ!」「神に逆らうとは何事か!悔い改めよ!!」と弟子たちに迫ることもできた。
しかし、弟子たちの前に姿を現したキリストは、ただ「あなたがたに平和があるように」と語りかけたのである。

わたしの平和

キリストが、目の前にいる弟子たちのために願われたことは、彼らが恐れから解放され、平和で満たされることだった。
キリストは逮捕される前、弟子たちにこう言っていた。

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネによる福音書14:27)

「わたしの平和を与える」という言葉は、キリストは私たちに平和に暮らして欲しいと願っているということ、そして、そのためにこの世へと来られたということを表している。
それと同時に「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」とキリストは言っているように、あくまでもこの平和は「わたしの平和」なのである。

それでは、キリストが言う「わたしの平和」とはいったいどんなものだろうか?
普通、平和というと「争いがない」「苦しみがない」「問題がない」という状態をイメージする。
この意味で考えれば、ユダヤ人を恐れている弟子たちに平和が与えられるためには、弟子たちがユダヤから遠く離れた異国で新たに生活を始めるか、何らかの力により、ユダヤ人たちが心変わりしなければならない。
つまり、目の前の状況が劇的に変わらなければ、世が与える平和を得ることはできない。

しかし、キリストが与える平和は、そのように問題が解決して初めて得られるものでも、努力して頑張った者だけが得られるものでもない。
キリストが与える平和、それは「関係」の中で与えられる平和である。
キリストと私たちとの間、私たち同士の間で実現する平和である。

キリストにある喜び

それでは、この時弟子たちが何よりも回復すべき「関係」はどのようなものだったか?
それは、キリストとの関係である。
そのために、キリストは弟子たちにあることをされた。

20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

キリストは弟子たちに対して、十字架の上で受けた生々しい傷跡を見せた。
手には釘で撃ち抜かれた傷があり、わき腹には、死を確認するために槍で突かれた跡があった。

キリストの体に刻まれた十字架の傷跡は、弟子たちにとってどういうものだったか?
弟子たちにとって、十字架というのは、自分たちがキリストを見捨てて、逃げてしまった弱さのゆえに起こった結果だった。
そのため、十字架の傷跡というのは、自分たちの弱さを突きつけられるようものであり、自分自身に対する情けなさや罪悪感が呼び起こされるような跡だったのである。

しかし、弟子たちは生々しい十字架の傷跡が刻まれたキリストを見ながら、悲しみに暮れたのでなかった。
なんと弟子たちは、喜んだのだ。

自分たちの罪のしるしである十字架の傷跡を見ながら、なぜ弟子たちは喜ぶことができたのか?
それは、大きな失敗を犯してしまった罪深い自分たちを、キリストが受け入れてくださると感じだからだろう。
キリストが十字架で負った傷跡を弟子たちに見せたのは、彼らの罪を責め立てるためではなかった。
むしろ、弟子たちの罪を赦すために来たのである。

弟子たちの喜びは、自分たちの罪を赦し、受け入れてくださるキリストと出会ったことによって生じたのである。
復活したキリストに出会ったからと言って、弟子たちの目の前の状況は、何一つ変わっていない。
しかし、弟子たちがキリストの赦しの愛を受け取った時、その心は「恐れ」から「喜び」へと変えられたのである。

私たちは神様の前で、自分の正しさを主張したり、罪の潔白を証明する必要はない。
キリストは私たちが罪に気付く前から、罪を悔い改める前から、私たちのことを愛してくださる。
そのキリストの前で私たちは、ただキリストにある愛を受け入れればそれで良いのである。
ここに、状況にも環境にも左右されない、真の喜びと平和がある。