牧師ブログ

「あなたがたを遣わす」

21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネによる福音書20:21-23)

もう一つの目的

キリストが復活したその日、弟子たちの前に姿を現したが、キリストが弟子たちに出会ったことには、二つの重要な目的があった。
一つは、開口一番「あなたがたに平和があるように」とキリストが語られたように、恐れに震えている弟子たちを受け入れて、平和を与えるためだった。
そして、もう一つは、21節に「わたしもあなたがたを遣わす」とあるように、弟子たちを遣わすためだった。

キリストは弟子たちを「何のために」、また「どこに」遣わそうとされたのか?
これを理解するためには、21節にある「父がわたしをお遣わしになったように」という言葉が大きなヒントになる。

キリストは、父なる神によってこの世へと遣わされてきたが、父なる神がキリストを遣わした目的は何だったか?

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネによる福音書3:17)

父なる神がキリストをこの世へと遣わしたのは「世を救う」という目的のためであった。
キリストは「世の救い」という使命を帯びて、この世へと来られ、今度は弟子たちを自分と同じ使命のために遣わそうとしたのである。

「何から」の救い?

「救い」とか「救う」という言葉は聖書によく出てくるが、「世を救う」とはいったいどのようなことなのか?
父なる様は、この世を「何から」救おうとされたのだろうか?

神様は、この世界を実に素晴らしい世界として創造した。
人間もしばらく神様と共にその素晴らしい世界に生きていたが、それが崩壊するきっかけとなったのが、人間の罪であった。
人間は、この世界を造った神様から独立して、自分たちなりに生きていこうとした。
この時に、人と神様との信頼関係が崩れてしまった。

それと同時に、人間同士の関係にも亀裂が入り、相手のことを支配したり、傷つけたりするようになり、愛し合う存在から、敵対し合う関係へと様変わりしてしまった。
また、人間とこの世界との関係もおかしくなっていき、人間が自分勝手に自然界を支配するようになっていった。

神様が意図された本来あるべき関係が歪んでしまったことで、この世界には、本当なら経験しなくても済むはずの痛みや苦しみが生まれてきた。
このように、人がもっと自由にいきたいと思って、神様から独立してみた結果、皮肉なことに、罪が生み出す痛みや苦しみによって、不自由に生きることになってしまった。

神様が救おうとされたのは、まさにその世界である。
神様が創造した実に素晴らしい世界が、罪によって痛みと苦しみにまみれた世界になってしまった。
その世界を救いたかったのである。

それで神様は、神様から離れていった人間との関係を修復するために、この世にキリストを遣わされた。
神様はキリストを通して、この世界に溢れている罪から、私たちを救おうとされた。
つまり、神様が計画された救いというのは、この世を「罪から」救うことであった。

「裁かない」という選択

もちろん、人間も「罪」というものを深刻に考え、これに対処してきた。
人間が取ってきた最大の対策が、罪に対して罰を与えるという方法である。
つまり、罪を犯した人を「支配」することによって、罪と向き合ったのである。

普通、どの国にも刑法という法律があって、そこでは、何が罪であって、罪を犯すとどういう罰があるということが定められている。
これは、国が個人に対して定めているもので、罪に対して裁きがある、罰があるという恐怖によって、罪に対処しようとするものである。
しかし、恐怖心によっては一定の抑止力はあっても、根本的な解決には至らない。

それでは、神様はどのようにして、この世を罪から救おうとされたのか?
それは、罪を「裁く」のではなく、「赦す」という方法である。
罪を犯した人を「支配」するのではなく、むしろ「受け入れる」ことによって、罪の問題の解決を試みたのである。

「えっ、簡単に赦したら人間はもっと調子に乗って、やりたい放題やり始めるんじゃ…?」と考えるかもしれない。
だから神様は、ただでは赦さなかった。
それ相応の犠牲を求めたのである。自らのうちに…。
そのために、この世へと遣わされてきたのがキリストである。

派遣の時

この世に遣わされたキリストは、十字架で殺された。
それは人間の罪に対する裁きのためだった。
父なる神様は、罪の裁きを人間に負わせるのではなく、ご自分の独り子であるキリストに負わせたのである。

神様は、赦される方に犠牲を強いるのではなく、赦す方が多大な犠牲と痛みを払うという人間にはとてもじゃないけど考えつかない方法で、この世を救おうとされたのである。
神様はキリストという存在によって、この世をどれだけ愛しているのかということを、私たちに明らかにされた。
十字架には、キリストを死なせるほどに、この世を愛された神様の愛、赦しの愛が溢れている。

神様の救いは、罪に溢れたこの世を「裁く」ことによってではなく「赦して、受け入れる」ことによって、なされたのである。

この世の救いのために、今度は弟子たちが遣わされる番である。
ただ、この時の弟子たちの姿を見ると、キリストと同じ使命を担うには、あまりにも役不足のように見える。
弟子たちは、キリストと一緒に死ぬ覚悟でいたのに、いざその時が来たら、一斉にキリストを見捨てて、逃げてしまった。

復活したキリストがその日に出会った弟子たちというのは、ユダヤ人を恐れて、家に鍵をかけて隠れている超絶に情けなく、かっこ悪い弟子たちであった。
しかし、キリストはそんな弟子たちに、自らの使命を委ねようとされたのである。

「聖霊を受けなさい」

キリストが目を向けているのは、これまでどういう生き方をしてきたのか、過去の失敗や過ちではない。
キリストは弱く足りない弟子たちを受け入れて、また立ち上がらせてくださるのである。
すべてのことを知っていながらも、受け入れてくださるのがキリストである。

キリストは弟子たちを遣わされるにあたって、二つのことを言われた。

22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

キリストは聖霊を受けるようにということと、罪の話をされた。
これはつまり、キリストが十字架にかかり、赦すことによってこの世を罪から救おうとされたように、弟子たちも同じように、人々の罪を赦しなさいということである。

ただ、人間が人間を赦すというのは、簡単なことではない。
私も経験があるが、自分に嫌がらせをしてきた人のことは、何十年経ってもまだ覚えている。
その人の顔も、その時のシーンもおそらく忘れることはないだろう。
そういう人間の心を考えれば、「赦しなさい」という言葉はあまりにもレベルが高すぎることなのである。

赦すことは人間業ではない、だからこそ、キリストは「聖霊を受けなさい」と言われたのである。
聖霊を受けなさいというのは、聖霊という神様の力によって、赦せるようになるという神様の側からの力強い助けである。

弟子たちは、この聖霊の力によって、罪を裁くのではなく、赦すことによってこの世を救うという使命のために遣わされていくのである。
この聖霊の助けがあるからこそ、救いということも人間業ではなく、まさに神の業としてなされていくのである。