牧師ブログ

どうして人は結婚するの?(12)

『体の一体化(セックス)のこと』

「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」
(創世記2:24)

聖書によると、結婚は最終的に「二人が一体となる」ことを目指しています。
ここで言う一体というのは「心」と「体」の一体化のことです。

前回の記事で「結婚の三大原則」について話しましたが、現代では、第一段階の自立と第二段階の結合を飛び越して、恋愛の段階で肉体的に一つになることが当たり前になっています。
しかし聖書は、肉体的な関係(=セックス)は、結婚した夫婦にのみ許される行為として教えています。

多くの人が考えるセックスというのは、相手から快感を得るために行われます。
そのため、付き合い始めたばかりでも、恋人以外の人とであってもセックスに至ります。

しかし、セックスは、相手から何かを得るための行為ではありません。
セックスの本質は、自分の全てを相手に与えることにあります。
裸と裸でぶつかり合う行為は、ありのままの自分を相手に与え、それを相手が受け止める行為であって、そこには、お互いが自分の全てを与え合うという尊い意味があるのです。

夫婦になる前にお互いが体を一つにすることについて、性病やできちゃった婚などの問題もありますが、聖書では別の問題を指摘しています。

「娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。『二人は一体となる』と言われています。」(Ⅰコリント6:16)

この言葉は、今のギリシャにあたるコリントという地域に送られた手紙の一文ですが、当時のコリントでは、不倫が正当化されていました。
クリスチャンであっても、そのような風習を自然と受け入れていたのです。

この手紙を書いたパウロという人物は「自分の全てを与えるつもりのない人と肉体的な関係を持つことは間違っている」と主張します。
なぜなら、二人が一体となるセックスは、一瞬でも相手との深い結びつきを感じさせる行為だからです。

そのため、遊び半分で行うセックスは、依存症の温床になっています。
人から必要とされない、誰からも愛されないさみしさをセックスによって埋めようとしても、快感を得ることしか考えていない相手との間に、本当の愛を実感することはありません。
その結果、「また捨てられた」という深い傷を負いながらも、自分を本当に受け入れてくれる相手を求め、依存症へと陥っていくのです。

このように、婚前セックスの最大の問題は、相手に深い傷を与えてしまうことにあります。そのため、夫婦になる前に、つまり、法的にも社会的にも何の責任もない結婚前に肉体関係を持つことは、双方の合意があった上での行為だったとしても、結果的にお互いを傷つけてしまうことになりかねません。

本当に相手のことを愛し、尊んでいるのだとしたら、セックスは自分の全てを与える覚悟相手の全てを受け入れる決意をした上で、法的にも社会的にも夫婦になってから行うべきです。
夫婦というのが、お互いに自分の全てを与え合う関係であるからこそ、セックスもその一部として行われるものなのです。

二人が一体となるセックスは、自分の全てを相手に与え、相手のありのままを受け入れる行為であるため、夫婦関係にある二人が一つに結ばれたしるしとして行われるべきものである!