牧師ブログ

愛はどこにあるのか?

「愛は一人では実現しない。」

愛という要素は、時代や場所を問わず、音楽やドラマ、映画など様々な文化の中に散りばめられている永遠不滅のテーマである。

愛について歌った曲で私が最近ハマった曲があるが、それが椎名恵という歌手が歌った「Love is all」という曲である。
改めてじっくり聞いた時に、とても身にしみる歌詞があった。

「Love is all  女なら何よりも愛を選ぶわ たとえそれが苦しみでもかまわない」
※1番のサビより一部抜粋

女なら…とあるがおとこおんな関係なく、まさに愛というのは“選び取るもの”である。

「好きだ」と「愛する」の違いがここにある。
「好き」というのは感情を表す言葉であって、自然に湧き上がってくる正直な心である。
それに対して「愛する」というのは、感情とは別の次元にある“意志”のことである。

そのため「好きではないけど愛する」ということが起こりうる。
「好きであること」は自然な感情の故に “選ぶこと”ができないが、「愛すること」は選ぶことができるし、選ぶべきものである。

結婚してからこのことがもっとよくわかるようになったが、結婚生活は“好き”だけではやっていけない。
いつもラブラブであることはこの上ないことだが、毎日一緒に同じ空間で生活していたらそんなことはまず無理である。
一緒にいるよりも自分一人でいた方が楽だし、自由だし、ストレスフリーだし、ずっとずっと生きやすい(決して結婚生活に不満があるわけではない)。

でも、アイフルのCMで女将さんが「そこに愛はあるんか?」と言っている言葉を思い出していただきたい。
愛というのは、一人ぼっちでいては決して実現しない。
愛というのは“関係”を通して実現する。
一人と一人がその関係に留まる中で、愛は初めて愛となる。

だからこそ、「愛を選ぶわ」という歌詞の後に「たとえそれが苦しみでもかまわない」が続くのである。
愛には苦しみが伴うことがよくある。

愛とは単に美しく、キラキラしているようものではない。
愛は、我々人間の暗い現実と深く結びついている。
そのため、愛ゆえに傷ついたり、傷つけられたり、悲しんだり、怒ったり…こういう”痛み”を経験することがある。

しかし、こういう感情は必ずしも負のものではなく、関係に踏みとどまろうとしているからこそ生まれてくるものである。
もし、関係から離れてしまえば、こういう感情からも解放されていく。
でも、この“痛み”こそ、自分の感情だけに従うのではない、健全な愛のしるしではないだろうか。

好きという自然に湧き上がってくる感情だけではなく、悲しみや怒り、憎しみなどの葛藤にまみれた中で意志によって選び取られるもの、それが本物の愛である。

イエスキリストは、十字架の上で傷だけになり、血だらけになった。
「十字架? えっ、俺でよければ全然いってもいいっすよ!」と言って、キリストは十字架にかかったわけではない。
十字架にかかる前夜、血のような汗を流しながら、痛みや葛藤を負いながら、我々人間との関係に留まることを選んでくれたのだ。
我々を見捨てることも、見限ることもなく。

「ここに、愛があるんや。」