牧師ブログ

「山の下で生きていく」

【マルコによる福音書9:2-9】

2六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
3服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
4エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
5ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
6ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
7すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
8弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

非日常的な山

皆さんは、山に登ることは好きでしょうか?
私は、富士山に2回登ったことがあるが、2回とも高山病で、途中でダウンしてしまったので、正直、山にはあまりいい思い出はないのですが…聖書を見ると、神様は何か重要なことを明らかにしたり、伝えたりする時に、山の上でそれをすることがよくありました。

たとえば、旧約聖書の中では、シナイ(ホレブ)という山が有名でしょう。
モーセの時代に、イスラエルの民がエジプトからカナンに向かっている途中、神様はシナイ山でモーセに律法を与えました。

また、エリヤという預言者は、預言者としての働きに疲れてしまった時、ホレブの山に導かれました。
そこで神様は、エリヤの後継者として、エリシャに油を注ぐように告げました。

新約聖書の中では、オリーブ山が一番よく出てくる山でしょう。
キリストはよくオリーブ山に行きましたし、十字架にかかる直前、キリストが祈りを捧げたゲツセマネというところも、オリーブ山の中にあります。
また、どこの山かはよくわかりませんが、キリストがひとり祈るために山に登ったという話も書かれています。

このように、山というのは、神様が大切にしていた場所の一つであることがわかります。

私たち人間にとっては、山にはどんな意味があるのか少し考えてみました。
山に登るためには、一時的に普段の生活から離れなければなりません。
日常から少し離れているところが、山です。
そういう意味で、山というのは、私たちにとって非日常的な場所です。
山登りが好きな人にとっては、ディズニーランドみたいなところだと言えます。

栄光と苦難のメシア

今日分かち合う御言葉も、まさに山の上で起こった出来事を記しています。
2節を見ると、この時キリストは、弟子の中で、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて、高い山に登りました。

そこで、とても不思議な出来事が起こりました。
突然、キリストの服が真っ白に輝き出し、そこにモーセとエリヤが現れて、キリストと語り合っていたと思ったら、雲の中から声が聞こえてきたのです。
これだけを見ると、まるでアニメや漫画の世界で起こるようなファンタジーの世界の話です。

この不思議な出来事は、一体何を意味しているのでしょうか?
まず、キリストの姿が変わった後、突然、現れたモーセとエリヤについて考えてみましょう。

この2人は旧約聖書を代表する人物です。
モーセは旧約時代において、律法を代表する人であり、エリヤは預言者の代表です。
新約聖書の中で、律法と預言者というと、旧約聖書のことを指すときに使われている言葉であることから、モーセとエリヤは、旧約聖書そのものだと言うことができます。

つまり、モーセとエリヤがイエス様と語り合っていた光景は、旧約聖書がキリストと共にいることを表しています。
キリストは旧約聖書と深い関わりがある方であり、キリストという存在自体が、旧約聖書で語られていた預言の成就であるということです。

この時、弟子たちは、光り輝くキリストがモーセとエリヤと語り合っている不思議な光景を目の当たりにしました。
栄光に輝くキリストの姿がそこにありました。

しかし、光り輝くキリストの姿がキリストの全てを表しているわけではありませんでした。
旧約聖書で語られていたメシアというのは、栄光に輝くメシアでもあり、同時に、苦難のメシアでもあるのです。

苦難の先にあるもの

2節を見ると、はじめに「六日の後」と書かれています。
わざわざ「六日の後」と書かれているということは、山の上で起こった不思議な出来事が、六日前の出来事と関係があるということでしょう。

六日前の出来事が、マルコによる福音書の8章の後半に書かれています。
そこを見ると、キリストが多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活すると、弟子たちに伝えた場面が出てきます。
これは、キリストが初めて、苦しみを受けて殺されること、また復活することについて、弟子たちに明らかにした場面です。

そういう話を初めて聞いた弟子たちは、誰もその話を理解することができませんでした。
なぜなら、弟子たちがメシアに期待していたことは、イスラエルをローマの支配から救ってくれることだったからです。
そのため、メシアが殺されることは、絶対にあってはならないことだったのです。

しかし、キリストは多くの苦しみを受けて、殺されると弟子たちに明らかにしました。
これは、旧約聖書がすでに語っていたことであり、預言の成就として起こることでした。

つまり、キリストの苦難、十字架というのは、神様の計画の中にあるということです。
確かに、十字架というのは、大きな苦難です。
しかし、そこに神様の計画があるとすれば、苦難では終わりません。
死では終わらないのです。
その先がある。
それが、復活です。

この時、3人の弟子たちが見た光り輝くキリストの姿というのは、復活の姿だったのです。
キリストは、苦しみを受けて、殺されて終わりではありません。
苦難のメシアであると同時に、復活のメシアでもありました。

つまり、3人の弟子たちが山の上で見たのは、十字架の苦難と復活を予兆するキリストの姿だったのです。
この時、特に弟子たちは、苦難のメシアを受け入れなければなりませんでした。
なぜなら、これからキリストは山を降りて、その苦難である十字架に向かっていくからです。

山の下にある現実

7節を見ると、雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声が聞こえてきました。
これは父なる神様の声であり、これに聞けというのは、イエス様に聞き従いなさいということです。
十字架の苦難に向かっていくキリストに聞き従いなさいということです。

弟子たちは、光り輝くキリストとモーセとエリヤと、仮小屋でもいいから、いつまでもずっと一緒にいたいと思ったかもしれません。

しかし、キリストはこの後、その山を降りていかなければなりませんでした。
非日常である山を降りていけば、そこあるのは日常です。
罪に満ちた世界があるです。
実際に、キリストは山から降りた後、その罪深い世界の中で、十字架にかけられることになります。

十字架刑というのは、誰かから感謝されるものではありません。
ひどい苦しみを味わいながら死んでいくという、大きな犠牲を払わなければならないのが十字架です。
そういう意味で、十字架というのは、ある意味で、報いのない犠牲です。

キリストは「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われましたが、十字架ではなくたくさんのお金を詰めたリュックを背負って、それを配って回った方が、意味を見出せたででしょう。
ただお金をあげることには痛みを伴いますが、同時に、そこには報いもあります。
受け取った人たちから「ありがとう」と言ってもらえるからです。
困っている人を助けたことへの充実感もあるでしょう。

しかし、十字架というのはそういう犠牲とはちょっと違うものです。
自分の十字架を背負って、キリストに従うことには犠牲や労苦が伴いますが、その労苦がいつも報われるとは限りません。
愛によって犠牲したことだからといって、誰かに感謝されるとは限らないのです。
それが、山の下にある世界の現実です。

しかし、そこに神様がいるのであれば、苦難は苦難で終わりません。
その先があるからです。

光り輝くキリストの姿は、私たちの復活をも指し示す出来事です。
キリストが栄光に輝く姿は、私たちが最終的にどのように変えられるのかを示す出来事でもあります。

この栄光は、必ずしも、この世で受けられるものかどうかわかりません。
それでも、神様は必ず私たちを死から復活させて、栄光に輝く姿へと変えてくださいます。
だからこそ、私たちは山の下にある世界、現実の世界を生きていくことができるのです。