牧師ブログ

「霊に追い出されちゃったイエス」

【マルコによる福音書1:12-13】

12それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
13イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

誘惑とわたし

この箇所は、イエス様が荒れ野で誘惑を受けた出来事について伝えています。
キリストはヨルダン川で洗礼を受けた後、荒れ野に導かれ、そこで誘惑を受けました。

皆さんは誘惑に強い方でしょうか?
それとも弱い方だと思うでしょうか?

私の場合は、若い頃は強かったような気がするけど、今はだいぶ弱くなったように思います。
私が高校生の時、大学入試のために勉強を、けっこう家でやっていましたが、多くの人は塾とか図書館に行って、勉強すると思います。

そうする理由は、家には集中を妨げる誘惑がたくさんあるからでしょう。
テレビがあり、ゲームもある。
ベッドもあるし…その他にもいろんな誘惑がある。

私の場合は、塾に移動する時間ももったいないと思って、家で勉強していたのですが、それでも、プレステやTVのリモコンを手の届きにくいところに置いたりしながら、なるべく誘惑されないように、勉強していたことを思い出します。

誘惑に打ち勝つためにまずすべきことは、誘惑に近づかないようにしたり、避けたりすることです。
旧約聖書の創世記に出てくるヨセフの話の中で、ヨセフが奴隷として売られた家で、その家の主人の妻から、誘惑されるという出来事がありました。

その時にヨセフが取った行動は、逃げるということでした。
奴隷という身でありながら、主人の家から逃げることは自分の身をさらに危険に晒すことでしたが、ヨセフがしたことは、とても賢い判断だったと思います。

そのように、私たちは誘惑に合わないためには、まず、誘惑自体に近づかない、誘惑があったらそこから逃げることがスマートな対応でしょう。

神さまは誘惑者なのか?

ただ、今日の場面を見てみると、キリストが誘惑を受けたプロセスについて、とても不思議なことが書かれています。
キリストは荒れ野に行って、そこでサタンから誘惑を受けましたが、この時、キリストを荒れ野に導いたのはサタンではありません。

キリストを荒れ野に送り出したのは、霊でした。
この「送り出した」という言葉は、聖書の中では、悪霊を「追い出す」という時に、使われている言葉です。
つまり、キリストは、霊によって、荒れ野に追い出されたということです。

「追い出される」というのは、本人の思いや願いとは関係なく、強制力のもとになされることです。
キリストもそのように霊によって、荒れ野に連れていかれました。

キリストを荒れ野に追い出した霊というのは、キリストが洗礼を受けた時、天から降ってきたものです。
天の父なる神さまがキリストに降したのが、三位一体の一つである聖霊です。

そう考えると、この時キリストは誘惑を受けてしまったのではなく、神様によって誘惑を与えられたということになります。

なぜ神さまはそんなことをしたのでしょうか?
神さまは、私たちを誘惑にあわせるようなお方なのでしょうか?
そうだとしたら、そのような神様は信じるに値するお方でしょうか?

悪霊を追い出しまくるキリスト

このことを考える時に、ヒントになる御言葉があります。

「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」(ヨハネの手紙一3:8)

キリストがこの世に現れた大きな目的の一つは、悪魔の働きを滅ぼすためです。
キリストは、悪魔による支配、悪魔の働きを終わらせるために、この世に来られました。

新約聖書を見ると、キリストが悪霊を追い出す話がよく出てきます。
マルコによる福音書では、キリストが最初に行った働きは、安息日に、悪霊に取り憑かれた人を悪霊から解放することでした。

キリストにとって、悪霊を追い出す働きは、単に人々を癒し、助けてあげることを意味したわけではありません。
キリストは、悪霊と直接対決をしたのです。

キリストは、この世界を支配し、人間を神様から引き離そうと働く悪霊を追い出すことによって、誰が本当にこの世界を支配する者であるのかを明らかにしたのです。

こういうことを考えると、キリストが、洗礼を受けた後、公に宣教の働きをスタートさせる前に、悪魔から誘惑を受け、悪魔の誘惑を退けたということには、大きな意味があることがわかります。

霊によって荒れ野に追い出されて、そこで誘惑を受けた出来事は、キリストこそが本当にこの世界を支配しているお方であることを、前もって明らかにする出来事として起こったことだったのです。

愛のしるし、聖霊

また、イエス様が荒れ野に追い出されたことは、私たちにとってまた別の意味もあります。

荒れ野というのは、砂漠です。
砂漠は、人間にとって、とても過酷な環境です。
食べる物も飲み水も十分になく、動物や獣に襲われる危険があります。
しかも、1人で砂漠にいるとしたら、大きな孤独にも襲われるでしょう。

このように、荒れ野は、飢えや渇き、危険や孤独と隣り合わせの場所です。
私たちが、苦難の中に追いやられる時、神さまとの関係において言えば、神さまから愛されているとは感じにくくなります。

日本で暮らしていれば、食べ物や飲み水で困ることはあまりないかもしれませんが、私たちが何か大変な状況に追い込まれた時、神様から愛されていない、祝福されていない、もっと言えば、見捨てられたと感じることがあるかもしれません。

しかし、キリストが霊によって荒れ野に追い出されたという出来事は、キリストが見捨られたことによって起こったことではありませんでした。

それは、キリストの上に聖霊が降された場面を見てもわかります。
キリストの上に聖霊が降された後、天から「あなたはわたしの愛する子」という声が聞こえてきました。
このことが意味するのは「あなたは私の愛する子」という言葉と、聖霊が降された出来事は、深く結びついているということです。

つまり、聖霊というのは「あなたは私の愛する子」と言われた父なる神様によって注がれた霊だということです。
聖霊は、父なる神様の愛のしるしなのです。

野獣と天使に囲まれながら

このことは、旧約時代にイスラエルの民が荒れ野を旅した出来事にも表されています。
モーセの時代に、神さまはエジプトにおいて奴隷状態だったイスラエルの民をエジプトから解放してくださいました。
しかし、カナンの地に向かって1ヶ月くらいが経った時、イスラエルの民は突然、不満を言い始めました。

「エジプトにいた方がマシだった。エジプトに帰らせてくれ、エジプトにいた時は美味しいものをたくさん食べられた」と。
このように、民はモーセに向かって、あなたは私たちを荒れ野に連れ出して、飢え死にさせようとしているんじゃないかと文句を言ったのです。

しかし、神さまは、民を苦しめるために荒れ野に導いたわけではありません。
イスラエルの民が荒れ野を旅していたのは、神様に見捨てられたからではなく、神様に救われたからです。
イスラエルの民は、過越しを通り越して、救われた民です。

イスラエルの民を救った神様は、民がカナンまで辿り着けるように、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、彼らを導かれました。
神様はイスラエルの民といつも共にいて、決してそこから離れることはありませんでした。

私たちも、荒れ野に追い出されたと感じる時があるかもしれません。
13節を見ると、キリストも荒れ野でサタンから誘惑を受けている時、イエス様の周りに野獣がいたように、荒れ野には、目に見えて、肌で感じる苦しみや不安、危険があります。

しかし、キリストの周りにいたのは、野獣だけではありませんでした。
天使たちが仕えていた、すなわち、天使たちが守っていたのです。

この場面で、野獣と天使というのは、2つのコントラストをなしています。
目に見えて、肌で感じる不安や恐れと、目には見えないけど、自分を守ってくれる存在です。
天使たちがキリストを野獣から守っていたように、私たちの人生にも、私たちを守ってくださる方が共にいます。
神様は、私たちの人生に関わっておられ、生きて働いてくださっているお方です。

何があったとしても、絶対に離れない神様が共にいてくださるので、私たちは荒れ野の中でも、守ってくださる神様を信頼して歩んでいくことができるのです。