牧師ブログ

「何を聞いて生きるのか」

自己正当化という罪

北イスラエルのアハブ王は、アラムに奪われた領地を奪い返そうと、南ユダの王であるヨシャファトに協力を要請した。
ヨシャファトは共に戦う条件として、今アラムと戦うべきか、まず主の言葉を求めるようにアハブに求めた。
それでアハブは、400人の預言者を呼び集めて、預言者たちの声を聞くと、皆が口を揃えて、アラムと戦うべきだと答えた。

後になってわかることだが、実はこの400人の預言者というのは、偽りの言葉を語る偽預言者だった。
その時、アハブが呼んでいなかった預言者が、もう一人いた。
それがミカヤという預言者だったが、アハブはミカヤを呼ばなかったのは、ミカヤが「幸運を預言することがなく、災いばかり預言する」からだった。
このミカヤという預言者こそ、主の言葉を告げる真の預言者だったが、アハブは自分に都合の悪いことばかり預言するミカヤのことを憎んでいた。

「災いを預言する」ということは「神様による厳しい裁きが告げられる」ということであり、神様の裁きが語られるのは、そこに人間の罪があるからである。
アハブが、ミカヤの語る預言は災いばかりだと感じていたのは、ミカヤがイスラエルやアハブの罪を指摘していたからであり、その罪ゆえに裁きがあることに反発していたからである。

これが意味しているのは、結局アハブにとっては、神様がどう言われるかということはどうでもよく、預言者が自分に都合のよいことを語ってくれさえすれば、それでよかったのである。
アハブからしたら、預言者が語る主の言葉によって、自分の罪が明らかにされたり、罪の悔い改めを迫られるようなことは、すべて災いであった。

ここに、人間の罪がある。
私たちも、アハブのように、できれば自分にとって都合の悪い言葉は聞きたくない。
それは、自分はいつも正しくありたいと願っているからであり、自分を否定される言葉を聞きたくないからである。
つまり、自己正当化という罪が神様の言葉を退けてしまうのである。

何よりも耳を傾けるべき言葉

私たちが求めるべきものは、自分に都合の良い言葉であったり、耳に心地の良い言葉ではない。
また、単に厳しい言葉や警告の言葉でもない。
何よりも耳を傾けて聞くべき言葉は、神様の言葉なのである。
自分がどう思うのか、周りの人がどう言っているのかということ以上に、神様は何と言っておられるのか、神様の言葉に耳を傾ける姿勢が重要である。

預言者ミカヤは「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」と言いながら、アハブにとって災いと感じる神様の言葉を告げた。
ミカヤは自分が見た2つの幻を明らかにし、今アラムと戦うのであれば、アハブが戦死すること、また、400人の預言者たちが語る言葉は、偽りの霊によるものであると告げた。
アハブに仕える預言者たちは、偽りの霊に導かれ、偽りの言葉を告げる偽預言者であることが、ミカヤによって明らかにされたのである。

偽りを言う霊の言葉と言うのは、私たちの本当の姿を見えなくさせてしまう。
例えば、アダムとエバが悪魔の言葉に唆され、罪を犯した時がそうである。
この時、悪魔は偽りの言葉によって、アダムとエバの二人を罪へと誘い込んだ。
神様が食べてはならない、食べると必ず死んでしまうと言われた木の実について、悪魔は食べても死ぬことはない、食べると神のようになれると、正反対のことを語った。
これはまさに、偽りに満ちた偽りの言葉だったが、二人はその言葉に唆され、神様との約束を破り、最終的には神様から離れていったのである。

だから、私たちにとって重要なことは、自分がどうしたいのかという前に、神様は何と言っておられるのかということである。
自分の耳に心地の良い言葉、自分に都合の良い言葉を聞けば、心が和らぐし、精神的に楽になる。

しかし、本当にそれが自分にとって必要な言葉であるのか、自分が耳を傾けるべき言葉であるのかを吟味しなければならない。

救いに導く言葉

アハブは人の罪を明らかにする神様の裁きの言葉を「災い」だと考えていたが、本当の災いとはなんであろうか?
それは、偽りの霊が語る偽りの言葉に唆され、神様から離れていってしまうことである。

使徒パウロが弟子のテモテに送った手紙に、こう書かれている。

2御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。3だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、4真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。(テモテへの手紙Ⅱ4:2-4)

パウロは、真理という健全な教えではなく、作り話、すなわち耳に心地の良い偽りの言葉で自分の都合の良いことを聞こうとする時代が来ると警告している。
だから、どんな時でも忍耐強く、御言葉を宣べ伝えなさいと。

自分に都合の良い心地の良い言葉を聞けば、それによって心は穏やかになるかもしれないが、そういう心地よさが私たちを救ってくれるわけではない。
そうやって自分を守り、自己正当化する生き方に救いがあるわけでも、本当の幸せがあるわけでもない。

本当に私たちを守り、救いに導くのは、真理という健全な言葉である。
真理の言葉によって、自分の罪を認め、悔い改め、自分を縛っている罪から救われることに本当の救いがある。

神様が語られる言葉というのは、私たちの心の思いや考えを見分けるほどに鋭い言葉であり、いつも私たちに心地よさを与えるものではない。
むしろ、痛みを感じさせ、葛藤を覚える時もある。

しかし、私たちの耳に災いのように聞こえることがあったとしても、神様は私たちに災いを下すために語っておられるのではない。
そうではなく、私たちが神様に立ち返って生きるために、神様は語り続けておられるのである。
神様の言葉に耳を傾けて、いつも神に聞くこと、ここに本当の救いがあるのである。