牧師ブログ

「幸せはどこにあるのか?」

1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。5更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」8イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。10というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』11また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。14イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。(ルカによる福音書4:1-14)

試練や誘惑の中にある時

キリストが悪魔から誘惑を受けた出来事は、3年半の公生涯が始まる直前に起こりました。
この出来事を経て、キリストの働きー福音を伝え、病人を癒し、悪霊を追い出すetc…ーが始まっていきました。

この場面で一つ押さえておくべきポイントは、そこに神様が関わっていたという点です。
1節に「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され」とありますが、キリストはヨルダン川で洗礼を受けた後、聖霊に満ちて帰ってきました。
そして、それから霊の導きによって荒れ野へと送り出されたのです。
さらに、14節を見ると「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。」とあるように、誘惑を退けた後もイエスは霊に満たされていました。

これらのことから、キリストが悪魔から誘惑を受けたという出来事には、霊の導きがあったことがわかります。
つまり、荒れ野での40日間というのは、神様を中心に見れば、神様から与えられた試練であり、悪魔を中心に見れば、悪魔から受けた誘惑だったと言えます。

ここから導き出される一つの真理があります。
それは、試練や誘惑というのは、神様に愛されていないから、神様に見捨てられてしまったから起こる出来事ではない、ということです。

荒野というのは欠乏や危険、疲労や苦難と隣り合わせの過酷な環境です。
私たちがそういう状況に追い込まれた時、それでも自分は神様に愛されている、守られているとは思いがたいでしょう。

しかし、神様の愛や聖霊の満たしというのは、私たちの目の前の現実、順境か逆境かに関わらず、聖書が伝える真理として、私たちに約束されていることなのです。
試練や誘惑の中にある時、私たちはそれでもなお、神様に愛されていて、守られているのです。

誘惑の正体

それでは、悪魔はどういう目的でキリストを誘惑したのでしょうか?
悪魔の目的は、単に罪を犯させたり、道徳的に堕落させたりすることではありません。
悪魔の本当の狙いは、神様から離れさせることにあります。
神様との関係を断ち切り、自力で生きるようにする、それによって悪魔の支配下に置くことが、悪魔の目的だと言えます。

まさにキリストが受けた3つの誘惑を見ても、そういう悪魔の魂胆が見られます。
①「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
悪魔は、キリストが自らの空腹を満たすために、自分の力で石をパンに変えてみればと唆しました。
この誘惑はつまり、神様の助けではなく、あなたは十分に自力で生きられるよという誘いです。

②「この国々の一切の権力と繁栄とを与えるから、わたしを拝みなさい。」
悪魔は、パン以上のもの、世界の権力と繁栄をちらつかせながら、神ではなく私を拝むようにと誘いました。
この誘惑はつまり、神様に仕えて生きるよりも、私に仕えて生きる方がもっとたくさんの物を得ることができて、幸せになれるよという誘いです。

③「天使が守ってくれるから、神殿の屋根から飛び降りてみなさい。」
悪魔は二つ目の誘惑に、イエスが「あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ」と答えたことに対して「じゃあ、あなたが拝み、仕えている神は、天使によってどんなときもあなたを助けて、守ってくれるんでしょ?」と誘いました。
この誘惑はつまり、神を信じているならすべてあなたの思い通りになるはずだけど、本当にそうなのか、本当にそういう生き方が幸せなのか、という誘いです。

本当の幸せはどこに…

悪魔はキリストを誘惑したように、私たちのことをもそのように誘惑してきます。

「神なんか信じて生きていて、本当に幸せになれるの?」
「お金、物、権力、名誉、評価、こういうものがあなたを本当に幸せにしてくれるよ。」
「だから、本当にあなたの人生に神が必要なのかもう一度問い直してみたら?」

こう悪魔が誘惑してくるように、私たちの幸せがどこにあるのか、どこに幸せを見出しているのか、何を求めて生きているのかということは、長い人生を生きる上で不可欠な問いでしょう。
もちろん、美味しい物を食べて幸せを感じることがあれば、欲しかった物を手に入れて幸福感に浸る瞬間もあります。

ただそれと同時に、悪魔がちらつかせたものが私たちの人生のすべてなのか、ということも考えてみなければなりません。
私たちの幸せは一体どこにあるのでしょうか?
自力で欲しい物をひたすら追い求める人生でしょうか?
それとも与えられた物に感謝しつつ、誰かに仕える人生でしょうか?