二つの心
この御言葉は受難週の木曜日、キリストが逮捕される直前に起こった出来事です。
そこでキリストはこう祈りました。
この時、キリストの心には二つの相反する思いがありました。
それは、恐れと従順の心です。
「この杯を取りのけてください」という言葉には、これから待ち受けていることに対して、キリストがひどく恐れている心が表されています。
「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という言葉には、受け入れがたい現実が待っていることを知っていながらも、それでも神様に従おうとする心が表されています。
この時、キリストが恐れに震えていたという事実は、私たちにとっては大きな慰めです。
怖いものは怖いし、嫌なものは嫌だと思うことは、人間として当たり前のことです。
怖がっても、心配しても、不安になっても、落胆しても、それでもよいのです。
それが神様が作られた人間の「自然な状態」だからです。
恐れ悶えるキリスト
キリストはこの時に初めて、ご自分の死を意識したわけではありません。
これまで弟子たちに三度、ご自分が苦しみを受けて、殺されることを告げていました。
命を狙われている宗教指導者たちの本拠地であるエルサレムに行けば、そこで自分の身に何が起こるのかをよく知っていました。
そうであるならば、私たちが期待するキリストの姿は、自らの運命を受け入れ、死を覚悟して、堂々と十字架に向かう姿でしょう。
しかし、実際にはそういう姿は見られません。
そこにあったのは、恐れ悶え、ひどく苦しみキリストの姿です。
おそらく、弟子たちも初めて目にする師匠の姿だったでしょう。
それでは、キリストでさえ、恐れ悶えさせてしまうものとは何だったのでしょうか?
「この杯を〜」と祈っているように、キリストが恐れたのは単に死ぬということではなく、杯でした。
これはずばり、十字架で殺されるということです。
十字架刑というのは、国家や主人に反逆した人々を見せしめにして殺す極刑であり、極悪人として裁きの座につくということを意味しました。
死の裁きを受けるということは、もう再生不可能な者として、完全に見捨てられるということです。
つまり、キリストを恐れ悶えさせた正体は、罪人として父に見捨てられてしまうということへの恐れだったのだと思います。
もしかしたら…
このキリストの姿を見ながら、思うことがあります。
それは、私たちを恐れに震えさせるのは、死ぬということ以上に、見捨てられてしまうことではないか、ということです。
もちろん死を恐れない人は誰もいないと思いますが、もう誰にも相手にされない、もう誰にも必要とされない、周りから見捨てられてしまうことは、もはや死を意識せざるを得ない時だと思います。
キリストが十字架という現実を見ながら感じた苦しみというのは、そういうものではなかったでしょうか。
こういう思いと同時に、キリストは「御心のままに」と父なる神様に従おうとしました。
なぜ、汗が血の滴るように地面に落ちるほど、苦しみ悶えたキリストが、そのような願いを持つことができたのでしょうか?
おそらく、キリストはそれでも心のどこかで、父に対する何かしらの信頼みたいなものがあったからではないでしょうか。
さすがに「復活するから別に死んでも大丈夫」なんてことは思えなかったでしょうが「完全に見捨てられることはないのかもしれない」というかすかな希望を持っていたのかもしれません。
私たちも人生の中で、キリストが感じたように、見捨てられたと激しく恐れ悶えることがあるかもしれません。
そういう絶望的な状況の中で、あえて希望を抱けるとしたら、父なる神様への信頼です。
それでも、私たちの代わりにキリストを十字架にかけるほど、私たちのことを愛してくださる父なる神様が何かしてくれるかもしれない。
父なる神様がキリストを生き返らせたように、もしかしたらこの私にも、命を吹き返すきっかけを神様が与えてくれるのかもしれない。
全幅の信頼でなくても、父なる神様を見れば「かもしれない」というかすかな希望を抱くことができるのです。