牧師ブログ

「何に支配されて生きるのか」

事件の発端

北イスラエルのイズレエルというところで、土地の所有を巡り、ある事件が勃発した。
この事件のきっかけは、当時の北イスラエルの王アハブが、ナボトという人に土地を譲って欲しいとお願いしたことにある。
アハブは宮殿のすぐそばにあったナボトが所有するぶどう畑を自分の菜園にしたいと思い、ナボトに話を持ちかけた。
もし、その畑を譲ってくれるなら、もっと良いぶどう畑を与えるし、もしくは、畑の代金を銀で支払ってもよいとナボトに提案した。

しかし、ナボトはアハブの申し出をきっぱりと断った。
その理由として、ナボトは「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と答えた。
ナボトにとって、自分の所有する土地は個人の所有物ではなく、神様から与えられた土地であるため、どんな理由であれ、主にかけてその土地を売ることはできなかった。

そうすると、アハブは機嫌を損ねて、腹を立てて宮殿に帰って行った。
そして、ご飯も食べずに、宮殿のベッドに横たわり、拗ねて寝てしまった。
アハブからすれば、王である自分が交換条件まで提示して、丁重に申し入れたにも関わらず、一市民に過ぎないナボトに断られたことにショックを受けたのであろう。

これはまだかわいいもので、本当の問題はこの後に起こる。
アハブの妻イゼベルが、機嫌を損ね、ご飯も食べずに寝ているアハブのもとにやってきた。
アハブは妻に事情を説明すると、イゼベルはこのように答えた。

「今イスラエルを支配しているのはあなたです。起きて食事をし、元気を出してください。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう。」(列王記上21:7)

アハブとイゼベルの姿はまるで対照的である。
落ち込むアハブと意気込むイゼベル。
イゼベルが言った「今イスラエルを支配しているのはあなたです」という言葉に、問題の本質が隠されている。
この後、イゼベルの策略によって、ナボトは無実の罪によって処刑されてしまうのである。

アハブとイゼベルに見る「人類最大の罪」

イゼベルはもともとフェニキヤという異邦の地から、イスラエルに嫁いできた女性である。
彼女が生まれ育ったところでは、絶対王政による支配が行われていた。
当時、多くの国では、王が絶対的な権力を持っており、王は自分の国に属するものすべてを、自分の意のままに操る自由があった。
そのため、イゼベルからしたら、なんで夫のアハブがご飯も食べられないくらいに落ち込んでいるのかがよく理解できなかったのである。

イゼベルが言った「今イスラエルを支配しているのはあなたです」というのは、この絶対王政から出てくる考えである。
本来、イスラエルの統治形態というのは、神様が王を通して支配する形であり、だからこそナボトも、自分の土地はイスラエルを支配している神様のものだと考えていた。
一見、ナボトは王に逆らったように見えるが、それ以上に、神様に逆らうことはできなかったのである。

しかし、イゼベルからすれば、王が一番であり、王の言うことは絶対であり、王であれば何をやってもお構いなしだった。
「今イスラエルを支配しているのはあなたです」という言葉は、イスラエルを支配する神様を否定し、人間を神の上に置く偶像崇拝の信仰から出てきたものである。

このように「自分こそが支配者だ!」と考えることについて、聖書は罪であると言っている。
今の世界を見ても、自分の思い通りに動く世界を作るために、国のリーダーたちは武力によって他民族を排除したり、報復を繰り返したりしながら、自分こそが本当の王であり続けようとしている。

今、ミャンマーで国軍によるクーデターが起こっており、少なくとも100人の市民が殺害され、2000人もの人々が非合法的に拘束されていると伝えられている。
軍隊が持つ武力という大きな力を用いて、不当に政権を奪い、人々の命、生活、自由を奪っている。
これは、自分たちこそがこの国の本当の支配者であるという考えによって起こっていることであり、これこそ人間が歴史を通して犯し続けてきた最大の罪である。

罪という力の支配を乗り越えて

イゼベルはナボトの土地を手に入れるために、イズレエルに住む人々に手紙を送り、ナボトを裁判の場に引き出し、彼を処刑するように命じた。
アハブとイゼベルは、自分たちの思い通りにするために、王としての権力を用いて、無実の人の命を奪ったのである。

このように「自分こそ支配者だ」という考えが、武力や権力と結びつくことで、多くの人々を罪に巻き込みながら、人の命を奪っていく。
この事件を見ながら、別に自分は支配者でもないし、武力も権力もないから、関係ない話だと考えるかもしれない。
ただ、これは国や土地だけの問題ではない。
自分の命や人生に関しても、全く同じことが言える。

この世界が神様によって造られたように、私たち一人一人の命も、神様によって造られ、与えられているものである。
しかし、もし私たちが自分の命や人生に対して、自分が王となり、支配者として君臨するのならば、それはアハブやイゼベルがしたことと同じことである。
私たちには、武力や権力という力はないかもしれないが、罪という大きな力がある。
これは、すべての人が例外なく持っている力である。
だから、自分が人生の支配者となって生きるということは、結局、罪という主人に従って生きることである。
これは、罪の奴隷としての人生である。

じゃあ、私たちはどうすればいいのか?
神様は、私たちを罪という主人から解放するために、ご自分のひとり子であるイエスキリストを送ってくださった。
神様を否定し、神様に敵対するこの世界に、神様は自ら人となって、その身を投じられたのである。
それは、この世界を創造し、そこに私たちの命ひとつひとつを創造し、それらすべてを統治している神様こそが、本当の王であり、支配者であるということを明らかにするためである。

私たちが罪という主人から逃れるために残されている道は、ただ一つである。
キリストを自らの王、主人として受け入れることである。
私の人生に、神様を本当の王として迎え入れることで、私たちの人生は神様と共に治める人生へと変えられる。
そうするならば、これ以上、罪に支配される人生ではなく、神様の愛、知恵、助けによって人生が導かれていく。
これこそ、神様から与えられている私たちの人生の本来の生き方なのである。