牧師ブログ

「尽きる情熱、尽きない愛」

「ここで何をしているのか?」

エリヤは、これ以上、神様と関わりを持つことを拒絶したイスラエルを見ながら、もうこの国に望みはないと感じ、絶望の淵へと追いやられた。
それで、ホレブの山まで逃げて行ったが、そこで神様はエリヤに出会ってくださった。

神様は、エリヤに2度「ここで何をしているのか?」と聞いた。
それに対してエリヤは「自分は神様に情熱を傾けて仕えてきたけど、イスラエルは何も変わらない」と2度とも同じように答えた。

もちろん、神様は今エリヤがどういう状態に陥っているのかをわかった上で、聞いている。
しかも、2回も。
なぜ神様は、そのようにエリヤに尋ねられたのか?
それは、エリヤと対話するためである。
神様は、絶望して生きる望みを失っていたエリヤと対話することを願われた。

2回とも絶望を口にエリヤの答えを聞きながら、神様は途中でその言葉を遮るようなことはされなかった。
普通、2回目も同じことを言われたら「いやいや、それさっき聞いたから^^;」と言いたくなりそうなものだが、神様はエリヤの言葉をすべて聞いてくださった。

預言者であれば、もっと強く勇しくなければならないかもしれないが、でもそれが、その時エリヤが感じていた本心だった。
エリヤは、神様の前で弱音を吐いたのである。
そんなエリヤの心を神様は理解してくださり、エリヤのことを受け止めてくださった。

神様は、私たちともそのように対話をすることを望んでおられる。
その時、神様は私たちの心を否定することなく、今感じていることをありのままに受け止めてくださる。
だから、神様の前では何も隠すことなく、ただ自分の本当の心を打ち明けることができる。

私たちがすぐに起き上がることができないほどにダメージを受けている時、決して、私たちの手を無理やり引っ張って、立ち上がらせるようなことはしない。

「どうしたの?」「ここで何をしているの?」「大丈夫?」と言いながら、私たちの弱さを理解し、受け止めてくださるお方である。

尽きる情熱

エリヤにはもう、預言者として、イスラエルの救いのために働く情熱は残っていなかった。
それで神様は、エリヤに対してエリシャという人を自分の後継者として立てるように命じられた。
これは、エリヤからしたら、預言者の引退勧告である。

エリヤは神様のこの言葉をどのように聞いていただろうか?
どんな世界にも世代交代があるが、前の世代の人が次の世代にバトンを渡して、自分は一線から退くことは、決して簡単なことではない。
なぜなら、自分がここまで培ってきたものがあるし、次の世代にはまだ譲れんというプライドがあるからである。

よく定年を迎えた時に、患いがちな病がある。
何十年もずっと仕事を中心に生きてきた人にとって、仕事を止めることは、肩書きを失い、役割を失うことである。
そうすると、自分のことが何の役にも立たない人間に感じてしまうことがある。
退職と同時に、生きる意味を失い、残りの人生に虚しさを感じるという人も少なくない。

エリヤの場合も、自分の後継者としてエリシャを立てるとしたら、エリヤからは預言者という肩書きと役割が失われる。
この時、確かにエリヤの預言者人生は終わるかもしれないが、エリヤの人生自体が終わるわけではない。
それでエリヤの人生に意味がなくなるわけでも、その価値がなくなるわけでもない。
これからエリヤは、元預言者として生きていくことになるが、神様の子供として生きていくことには何の変わりもないことである。

私たちから、情熱や力が失われ、肩書きや役割が失われることがある。
しかし、これは、ダメなことではなく、人間の現実である。
大切な何かを失ったとしても、神様との関わりが失われたり、奪われたりすることはない。

私たちは皆、イエスキリストにおいて造られ、キリストによって愛されている。
ここに、いつも尽きない平安と希望があるのである。

尽きない愛

預言者としての情熱を失ってしまったエリヤを見ると、何だか神様が無力なようにも感じる。
エリヤは神様を信じていながら、しかも、預言者という大きな務めが与えられていながら、自分の持ち場から逃げていってしまった。

これはイゼベルの勝利を意味しているのだろうか?
神様にも限界がある、信仰にも解決できないことがある、ということだろうか?
そうではない。

確かに、エリヤからは預言者としての使命も情熱も失われてしまった。
しかし、神様の情熱、神様のイスラエルに対する救いの情熱は消えることはなかった。

それを表すように、神様はエリヤの後継者としてエリシャという人を備えておられた。
エリヤは、神様に従う人はもうこのイスラエルには残っていないと思っていたが、神様はバアルにひざまずかない7,000人もの人々を残しておられた。

エリシャとこの7,000人の人々は、神様の尽きない情熱と愛を表す人々である。
エリヤが倒れてしまったからといって、神様は、イスラエルを救うことを決して諦めておらず、神様の愛は萌え続けていた。

この世に対する神様の救いの情熱と、私たちに対する神様の愛は変わることも、尽きることもない。
それを最もよく表しているのが、イエスキリストという存在である。

神様はこの世界を罪から救うために、アブラハムやモーセ、ダビデといった人々を立てて、彼らを通して神様の存在と力を明らかにして来られた。
しかし、イスラエルの歴史に表されているように、人間は神様のことを拒絶し続けた。

それで神様は、最後の手段として、神様の独り子であるイエスキリストをこの世に送ってくださった。
どれだけ人間が倒れ続けても、神様の情熱と愛は尽きることなく、この世に注がれ続けるのである。