牧師ブログ

「すべてに失望した時」

失望から絶望へ

エリヤがバアルの預言者たちとの対決に輝かしい勝利を収めた後、アハブ王の妻であるイゼベルは、エリヤに復讐を企んでいた。
エリヤがイゼベルが送った使いから殺害予告をされた時、エリヤはすぐさま逃げ出した。
自分の命を守るために逃げたはずだったが、エリヤは道中で「わたしの命を取ってください」と神様に願った。
イゼベルから脅迫されたことで、エリヤは、自分の死を願うほどまでの状態に陥ってしまった。

一人で850人の偶像の預言者たちに立ち向かったエリヤはどこにいってしまったのか?
なぜエリヤは死を願うほどまでになってしまったのか?

逃亡先でエリヤが語ったもう一つの言葉がある。
エリヤは「自分は主に情熱を傾けて仕えてきたのに、イスラエルの人々は主との契約を捨てたままだ。神に仕える者として残っているのは、自分一人しかいない。」と言っている。

つまり、エリヤは、イスラエルの人々は、天から火が下されるという奇跡を見たにも関わらず、全く悔い改めることがないと嘆いているのである。
エリヤからしたら、昔と今とで、イスラエルの状況が何一つ変わっていないように見えた。
だからこそ、エリヤは「これだけやっても何も変わらないんだったら、もうこれ以上何をやっても無駄だろう…」と目の前の現実に落胆し、失望を覚えたのである。

この時エリヤは、預言者としての自分自身に失望していた。
また、神様が起こした奇跡を起こしても全く変わらないイスラエルの民に失望していた。
さらには、神様に対する失望もあったのではないか。
「イスラエルのために起こしてくださったあの奇跡は何だったんですか?」
「わたし一人で、これ以上どうしたらいいんですか?」

エリヤが死を願ったということは、もはや神様のことまでも信頼できないほどに、追い込まれていたということである。

私たちは、自分が一生懸命に犠牲したことに対して、期待した結果が伴わない時に、自分自身や周りに失望する。
それ以上に、神様を信じてやったことなのに、何ひとつ目の前の現実に変わりがない時、神様にまでも失望する。

神様にまでも失望してしまうこと、これが、かのキルケゴールが言う絶望の極限状態=「死に至る病」である。

静かにささやく声

エリヤが死にかけていた時、神様はエリヤのことをどのように見ていたのか?
神様は使命を失い、情熱を失ったエリヤのことを「預言者のくせに何やってんだ!」とは見ていなかった。
神様は何も食べられないほどに弱っていたエリヤに、御使いを通して、食べ物と水を与えてくださった。

そして、エリヤが洞穴の中で、一夜を過ごそうとしていた時、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。
神様がエリヤに主の前に立つことを求めたのは、エリヤが何もかもに絶望し、神様から逃げていたからである。
この時神様は、もう一度エリヤに対して、神様ご自身の存在とその力を表すため、エリヤを神様の前に呼び出されたのである。

それで、神様はまず、激しい風邪を起こして、山を裂き、岩を砕いた。
しかし、風の中に神様はおられなかった。
風の後に、地震が起こった。
しかし、地震の中にも神様はおられなかった。
地震の後に、火が起こった。
しかし、火の中にも神様はおられなかった。
火の後に、静かにささやく声が聞こえてきたl。
エリヤはその声を聞くと、自分の服を顔で覆いながら、洞穴の中から出てきた。

この一連の出来事は、何を意味しているのであろうか?
エリヤは、神様が起こした激しい風、地震、火という目に見える奇跡の中に、神様を見出すことはできなかった。
しかし、エリヤが静かにささやく声を聞いた時、そこに神様の存在を感じたのである。

エリヤは、天から火が下されるという奇跡的な出来事を通して、神様の圧倒的な力を体験した。
しかし、神様というのは、いつも目に見える奇跡の中だけに存在しておられるのではない。
目に見える変化がない時、状況が悪化しているように思える時、そこでも神様は私たちにささやいておられる。
この神の声の中にこそ、神様の存在とその力が表されているのである。

耳で生きる

信仰生活の中心は、目ではなく耳である。
というのは、神様は歴史の中で、特に「語ること」を通して、ご自身の存在と力を表してこられたからである。
その集大成が「聖書」だと言えよう。

普段の生活の中で、私たちは、目から入ってくる情報に最も影響を受けている。
そのため、神様についても、目に見えることの中に神様を見出そうとする傾向がある。
神様がいるなら、当然、良いことが起こるはずだと、成功的な人生の中に、目に見える成果の中に神様を見出そうとする。

しかし、もしそうでなければ、神はいない、神なんて信じる価値はないと考える。
こんな悲惨なことが起こるんだったら、神を信じている意味はないし、自分の期待に応えてくれない神なんて、人生には必要ないと。

これは、ご利益主義的な信仰観であり、この考えには人間の罪や弱さ、限界ということが全く考慮されていない。
何よりも、この考えの最も大きな問題は、神様に従おうとするのではなく、神様を自分に従わせようとしているところにある。
まさにこれが、聖書が言う、神を神として認めない罪である。

たとえ、目に見える変化がなかったとしても、期待を裏切られたように感じることがあったとしても、それは「神はいない」とか「神を信じる価値はない」ということを意味するのではない。

そういう時にこそ、まず、神の前に立ち、静かにささやく神の声に耳を傾けてほしい。
静かにささやく声に、神様の存在とその力がはっきりと表されている。
この声こそが、私たちの内に、あらゆる逆境にも打ち勝つ信仰を築かせるのである。