開かれた天
カルメル山に集められたイスラエルの民とバアルの預言者450人、また、アシェラの預言者400人の前で、エリヤはただ一人、主の預言者としてそこに立っていた。
神の国であるイスラエルの中で、エリヤは一人、アンチ神の国陣営の前で、崖っぷちに立たされていたのである。
特にこの日本であれば、周りに誰もクリスチャンがおらず、神様を信じているのが自分一人だけという状況に置かれることがある。
教会の外に出れば、家族の中で、学校や会社の中で、自分以外には誰もクリスチャンはいないことは珍しいことではない。
親しい家族はいる、よく会う友達はいる、でも、神様を信じる者としてそこにいるのは、私一人だけ。
こういう時、私たちは霊的な孤独を感じる。
そこでは、自分がクリスチャンであることが何か否定されているような感じがして、圧倒的少数の中で、周りの影響を受けてしまう。
自分が浮くことがないように、周りに溶け込もうと行動する。
本来、その集まりの中にも神様は共におられるはずだが、そこから神様を追い出してしまうのである。
主の預言者として一人そこに立っていたエリヤは、どう行動したであろうか?
エリヤは、そこに神様が共におられることを信じていた。
だからこそ、その場に神様がおられることを明らかになることを願った。
大勢の敵に囲まれる中で、エリヤはただ彼らを睨みつけていたわけではない。
エリヤは、目を天に向けたのである。
私たちも周りを見れば、自分以外に誰も神様を信じる者がいないという逆境に置かれることがある。
その時に、私たちが目を向けるべきところは上、天である。
四方八方、すべてが塞がれていても、天だけは誰によっても塞がれることはない。
いつも天は、この地に対して開かれているのである。
どこに神はおられるのだ
日本語で」「天を仰ぐ」という慣用句があるが、この言葉は失敗したり、何か行き詰まった時に「天を仰ぐ」というように、ネガティブな意味で使われている。
しかし、神様を信じる者が天を仰ぐ時、そこにはむしろ、ポジティブな意味しかない。
天に目を上げるならば、この地上では一人、孤独であっても、決して自分一人で生きているわけではないことがわかる。
天を仰ぐからと言って、神様は天高く、私たちの手の届かないところからこの地を見下ろしているわけではない。
1986年にノーベル平和賞を受賞したエリ・ヴィーゼルというユダヤ人作家がいる。
彼は1944年、16歳でアウシュビッツ強制収容所に入れられた経験があるが、それをもとにして書かれた「夜」という小説がある。
ある時、収容所内にある発電所が破壊される事件が起こり、その犯人として三人のユダヤ人が見せしめのために公開処刑されることになった。
三人のうちの一人は、なんと子供だった。
身代わりとして絞首台の上に立たされた三人は、処刑される時、ヴィーゼルの後ろからこういう声が聞こえてきた。
「神はどこだ、どこにおられるのだ」
三人のうち、二人の大人はすぐに死んだが、子供は体重が軽いので、首を輪っかにつるされても、すぐには死ななかった。
30分あまりの間、その子供は生と死の間で、もがき苦しんでいた。
それを見ながら、さっきの人がまたこう言った。
「いったい、神はどこにおられるのだ」
今ここにおられる神
この問いかけに対する答えとして、ヴィーゼルは小説をこう続けている
「そうして、私は、私の心の中で、ある声がその男にこう答えているのを感じた。『どこだって。ここにおられる。−ここに、この絞首台に吊るされておられる。』」
ヴィーゼルは「神は今ここにおられる。神はあの子供と共に今、ロープに吊るされて苦しんでおられる」と考えたのである。
地獄としか言いようのない、収容所の絞首台の上に神がおられるのだと。
誰かの身代わりとなり、見せしめで処刑される現場はまさに地獄である。
こんな地獄には、神なんて存在するわけがない。
神がいないからこそ、こんな地獄のようなことが起こっているのだと。
しかし、ヴィーゼルは地獄のような状況の中にも、神がおられると信じていた。
多くの日本人はご利益主義的な宗教観を持っているが、そこにあるのは、「神が自分のことを幸せにしてくれる」という価値観である。
神はいつも「福」と結びついている。
しかし、アウシュビッツという地獄を経験したユダヤ人たちは、苦難の中に神を見出したのである。
だから、ユダヤ人というのは神に対する信仰が、そう簡単にへし折られることはない。
ヴィーゼルはユダヤ人だったが、クリスチャンのような信仰を持っている。
キリストが私たちの身代わりとなり、その罪を背負って十字架につけられた。
すべての苦しみと痛みを背負ってくださったキリストを見れば、神がどこにいるのかは明らかである。
「神はどこにおられるのだ」
「神は今ここにおられる」