牧師ブログ

「ひとりぼっちの十字架」

【ヨハネによる福音書19:25-30】

25イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
26イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
27それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
28この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
29そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
30イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

十字架の上からの言葉①「あなたの母、子です」

キリストが十字架にかけられた時、そこには、4人の婦人たちーキリストの母とその姉妹、クロパの妻マリア、マグダラのマリアーが立っていました。
さらには、キリストの12弟子の1人であるヨハネもそこにいたようです。
26節や27節の中にある「愛する弟子」とか「弟子」というのが、どうやらヨハネのことのようです。

このように、キリストが十字架にかけられた時、そこには、キリストと親交のあった人々が一緒にいたのです。
しかし、彼らはただそこにいることしかできませんでした。
目の前には、十字架に釘付けられ、血を流して苦しみ悶えるキリストがいましたが、彼らはただその姿を眺めていくことしかできなかったのです。

それはある意味で、異様な光景だと言えます。
キリスト親しくしていた人々は、誰ひとりとして、目の前で苦しむキリストのために何もしてあげることはできませんでした。
十字架のキリストの前に、人々はみな、無力でした。

その時、十字架のもとに立つ人々は、キリストが語るいくつかの言葉を聞きました。
「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(26節)
「見なさい。あなたの母です。」(27節)

ここで「婦人」というのはキリストの母マリアのことで、キリストは母に対して、弟子のヨハネのことをあなたの子供だと言いました。
また、ヨハネに対しては、母マリアのことをあなたの母だと言いました。

この言葉が意味していることは「あなたがたは家族です」ということです。
キリストは死ぬ直前に人々に語った話の一つは、家族に関することでした。

教会のはじまり

ヨハネによる福音書の2章に、キリストの母マリアが出てきます。
そこでキリストは母マリアに対して「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と言っています。
実の母に対して投げかける言葉としては、冷たい言葉にも聞こえますが、この言葉は「血縁=家族であるわけではない」というメッセージを発しています。
逆に言えば「たとえ血のつながりがなかったとしても、家族となりうる」というのが、メッセージの真意だと言えるでしょう。

そういう意味で、キリストが十字架の上から買った言葉には、母マリアと弟子ヨハネは家族であるという呼びかけとして聞くことができます。
これが、教会の姿です。
ここから教会が始まったと言うこともできるかもしれません。

キリストを中心として、そこに母マリアがいて、弟子のヨハネがいる。
さらには、婦人たちがいる。
このように、キリストのもとに集まり、キリストを見上げている人々の集まりが教会です。

お互いに気が合うからと、話や趣味が合うから、教会は集まり始めたのではありません。
教会とは、キリストによって愛され、キリストによって集められている群れだからです。

この時、人々は苦しみ悶えるキリストを助けることはできませんでした。
初めの教会は、ただキリストを見上げ、そこに立っていることしかできませんでした。
キリストと共にいながら、無力だったのです。

しかし、これが教会の真実な姿です。
教会は何か特別な力を持っていたり、発揮したりしているから教会となるのではありません。
教会とは、キリストを中心として集まっている家族のことなのです。

十字架の上からの言葉②「渇く」

キリストが十字架で言った言葉は、他にもありました。
「渇く」(28節)、そして「成し遂げられた」(30節)という言葉です。

「渇く」というと、ヨハネによる福音書の4章に出てくるサマリアの女性を思い出します。
キリストがサマリアのシカルという街に立ち寄った時、井戸に水を汲みにきた女性と出会いました。
キリストは彼女を見ながら、こう言われました。

イエスは答えて言われた「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書4:13-14)

キリストはご自分のことを「永遠の命に至る水」だと紹介しました。
キリストは、神様から離れたこの女性が、もう一度神様との交わりが回復することで、彼女の渇きが満たされると信じていました。
この女性だけではなく、キリストは人々の「渇き」と満たすために、人々と出会ったと言えるでしょう。

しかし、そのキリストが「渇く」と言っているのです。
これは、本来、命の泉でありキリストが父なる神様から引き離されたことによって、出てきた言葉です。

キリストがかかった十字架というのは、主人に反抗して反乱を起こした奴隷や、ローマという国家権力に反逆を企てた活動家たちを見せしめにするために行われた処刑方法でした。
当時は、そのように主人に反逆することは、殺人や強盗以上に大きな罪としてみなされていました。

そういう意味で、神様ご自身であり、罪のないキリストが十字架にかけられるというのは、反逆者として裁かれた出来事だと言えます。
キリストが背負った十字架というのは、裁きとしての死でした。
裁かれるというのは、見捨てられるということです。

つまり、キリストが背負った十字架は、罪人として父なる神様に見捨てられてしまう出来事だったのです。
だからこそ、キリストは十字架の上で「渇く」と言われたのです。

十字架の上からの言葉③「成し遂げられた」

ただ、その後すぐにキリストは「成し遂げられた」と言って、息を引き取りました。
キリストが渇いたことによって、何が成し遂げられたのでしょうか?
それは、私たちの渇きが満たされたのです。

キリストはたった一人で、このことを成し遂げられました。
キリストの母マリアも、弟子のヨハネも、他の婦人たちも、キリストが成し遂げた時、ただそこに立ち尽くしていくことしかできませんでした。
キリストのために何一つやってあげることはできませんでした。
すべてはキリストが一人で成し遂げたのです。

私たちの救いとはそのようなものです。
罪が赦されること、永遠の命を受けるとは、私たちの努力義務が必要なものではなく、キリストがたった一人で成し遂げてくださったことなのです。
私たちは、この救いを努力や頑張りで受け取るのではなく、ただ感謝して受け取ればそれでいいのです。

ただ信じて、それを受け取ることが信仰だからです。
ここから教会は始まりました。
すべて神様の側で成し遂げてくださったところから教会が始まったのであれば、教会に求められることは努力や頑張りではなく、神様の側でしてくださることを信じて、期待して、委ねる姿ではないでしょうか。