牧師ブログ

「見えなくてもそこにいる」

【ヨハネによる福音書20:11-18】

11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

一人暗闇の中に置かれる時

イエス・キリストが復活したことによって、この世界には教会が生まれ、教会はキリストを伝えるようになりました。
それによって、キリスト教が宗教として世界中に広まり、キリスト教に由来する音楽や芸術など、あらゆる文化も誕生していきました。

これらのことはキリストの復活がなければなかったことであり、そういう意味で、キリストの復活はこの世界の歴史において、大きなターニングポイントとなった出来事だと言えます。

キリストが復活した体でこの地上に存在していたのは、たった40日間であり、この期間にキリストに出会った人々というのは限られています。
それでは、復活したキリストに最初に出会った人物は誰だったのでしょうか?
ヨハネによる福音書によると、それはマリアという女性でした。

このマリアはキリストが十字架で殺された時も、その後、キリストが墓に埋葬される時も、ずっとキリストのそばに寄り添っていた、キリストの弟子の1人です。
マリアは、キリストが墓に葬られた後、遺体が腐らないようにするため、日曜日の朝、キリストの墓を訪れました。
しかし、マリアが墓の中を覗いてみると、そこにあるはずの遺体がなくなっていました。

本文の11節に「マリアは墓の外に立って泣いていた」とあるのは、そのためです。
マリアは、空になった墓を見ながら、誰かにキリストの遺体が奪われてしまったと思って、泣いていたのです。

この時、マリアが流した涙には、いろんな感情が複雑に入り混じっていたでしょう。
たとえば、救い主として信じ、従ってきた人が殺されてしまったことへの戸惑い。
もう一度会えると思っていたキリストを失ってしまった悲しみ。
十字架にかけられたキリストのために、何もしてあげられなかったもどかしさや無力さ。
これからどうしていけばいいのかという将来への不安や心配。
マリアの涙には、こういういろんな感情が詰まっていたのではなかったでしょうか。

私たちにもマリアのように、予想だにしなかったことが起こった時、自分の期待が裏切られたように感じた時、自然と涙が溢れ出す瞬間があります。
人生には、そういうふうに突如として、暗闇の中に放り出されたように感じる瞬間があります。

たとえそう感じられなくとも

それでは、マリアが暗闇の中に置かれていた時、キリストはどこで何をしていたのでしょうか?
マリアがふと後ろを振り返ってみると、そこにはある一人の人が立っていました。
その人はマリアに向かって「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」と聞きました。
そうするとマリアは「あなたがあの方(=キリスト)を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」と答えました。
マリアはその人のことを、お墓の管理人さんだと思って、そう答えました。

しかし、マリアが話していたその人こそ、復活したキリストだったのです。
マリアがキリストを失って、悲しみに暮れていた時、キリストはマリアのすぐそばにいたのです。

この時のマリアのように、私たちも暗闇の中にポツンと一人置かれている時、私たちのそばにキリストがいることがわからなくなってしまうことがあります。
「神様がいるなら、なんでこんなことが起こるのか?」
「こんなに大変な状況なのに、神様は今どこで何をしているのか?」
こういう思いを抱くことがあるかもしれません。

しかし、たとえ私たちがキリストの存在を感じることができなかったとしても、キリストは私たちのすぐそばに立っておられるのです。
私たちの目には見えなかったとしても、心では感じることができなかったとしても、キリストは私たちといつも一緒にいてくださるお方です。

苦難の中にも

1986年にノーベル平和賞を受賞したエリヴィーゼルというユダヤ人作家がいます。
彼が書いた作品の中に「夜」という小説がありますが、これは第二次世界大戦中の1944年、ヴィーゼルが16歳でアウシュビッツ強制収容所に入れられた体験をもとに書かれたものです。

ある時、収容所の中にある発電所が破壊される事件が起こります。
その時に3人のユダヤ人が、見せしめのために、公開処刑を受けることになりました。
処刑するために連れて来られた3人のうちの一人は、なんと小さな子供でした。

3人は犯人の身代わりとなり、絞首台の上に立たされ、処刑されました。
この時、ヴィーゼルの後ろの方から、こういう声が聞こえてきました。
「神はどこだ、どこにおられるのだ」

3人のうち、2人の大人はすぐに息絶えました。
しかし、子供だけは生きていました。
なぜなら、縄で首を締められて、吊るされても、子供は体重が軽いので、すぐには死ななかったのです。

30分あまりの間、その場にいた多くのユダヤ人たちは、絞首台の上で苦しみもがき、生死をさまよう子供の姿を見ることになりました。
そうすると、ヴィーゼルの後ろから、さっきと同じ人がこう言いました。
「いったい、神はどこにおられるのだ」

この話の後に、ヴィーゼルは小説の中でこう書いています。
「そうして、私は、私の心の中で、ある声がその男にこう答えているのを感じた。『どこだって。ここにおられる。ーここに、この絞首台に吊るされておられる。』」
これは「神は今ここにおられる。神はあの子供と共にロープに吊るされておられる」という意味です。

ナチス・ドイツによるユダヤ人への迫害は悲惨なものでした。
収容所はまさに地獄であり、そこは神の気配すら感じることのできない場所だったでしょう。
しかし、ヴィーゼルは「地獄のような状況の中にも、神がおられる」という信仰によって、この夜という小説を書いたのだと思います。

歴史上、ユダヤ人は数々の苦難を経験してきました。
国を支配されたり、迫害を受けたりしながら、そういう中で彼らが辿り着いた一つの結論があります。
それは「苦難の中にも、神は共におられる」ということです。
「今、ここに神は我々と共に生きておられる」のです。

神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。(ヘブライ人への手紙13:5)

良い時も悪い時もどんな時であれ、キリストは私たち共に歩んでくださるお方です。