牧師ブログ

「来る、きっと来る」

36「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。37人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイによる福音書24:36-44)

キリストの二つの到来

今日(11/27)から教会の暦では新しい季節が始まり、アドベント(待降節)に入りました。
アドベントからクリスマスまでの1ヶ月間は、キリストの「到来」に心を留める期間として過ごします。

キリストの「到来」という時、二つのものがあります。
一つは、2000年前のユダヤにイエスという人間として、この生まれた第一の到来です。
もう一つは、時期ははっきりとは分かりませんが、世界の終わりに、裁き主として来られる第二の到来、いわゆる再臨です。

第二の到来である再臨について、聖書は大きく二つのことを言っています。
一つはキリストが再臨する時、それはこの世が終わる時であり、裁きがあるということです。
もう一つは、再臨の時については、私たちには知らされていないということ、つまり、その日は突然やって来るということです。

この「突然、来る」ということについて、キリストが弟子たちに語ったのが、今日分かち合う聖書箇所です。
36節には「その日、その時は、誰も知らない。ただ父だけがご存知である。」とあり、44節には「人の子は思いがけない時に来る」とあります。

第一の到来(キリストの誕生)について考えると、これは旧約聖書で預言されていたことであり、突然起こった出来事でした。
同じように、第二の到来である再臨も確かに起こる出来事としてキリスト自身が言われたことであり、その時は突然やって来るのです。

世界を変える1日

「再臨は突然、来る」ということについて、キリストは旧約聖書のノアの時代の話を引用して話しています。

37人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。

ここで「ノアの時」という言葉は、直訳すると「ノアの日々」となり、「洪水になる前は」という言葉は「洪水になる前の日々は」という言葉になります。

これらの「日々」という言葉が意味していることは何でしょうか?
日々というのは、私たちの日常のことで、1日1日が重なり合って、1ヶ月となり、1年となります。
そのように日々、当たり前のように食べたり飲んだりしながら過ごしていた時に、ノアの時代に突然起こったのが、洪水という裁きでした。

人々は洪水が起こったその日も、いつもと変わらない日々を過ごしていました。
しかし、その日、その時は、突然やってきたのです。

神様はノアに対して、洪水が起こる日をあらかじめ伝えていて、その日の七日前に神様はノアに箱舟に入るように言われました。
そして、七日後のノアの生涯の第600年、第2の月の17日、洪水が起こったのです。
人々はその日もそれまでの日々と何ら変わることなく迎えましたが、後から振り返ってみれば、その日は、当時の人々の人生と世界を大きく変える1日となったのです。

このように、今日もまた昨日までと同じように思える日が、突然、この世界を大きく変える1日になることがあります。
それが、再臨の日なのです。

忠実な者として

このことを踏まえて、キリストはこのように教えておられます。
42節「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」
44節「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

キリストは「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」と教えています。
それでは、目を覚まし、用意しているというのは、具体的にどのようなことでしょうか?

マタイによる福音書の24章、25章には、終末と再臨について記されていますが、そこでキリストが二度語っていることが、主人に忠実な僕の話です。
つまり、再臨の日に備えるというのは、忠実な者として生きる、ということだと言えます。

主人が僕に望んでいることは、僕が有能な人物になることでも、立派な成果を挙げることでもありません。
主人に忠実な者として、日々生きることです。

「忠実」という言葉と「日々」という言葉は、重なる部分があるように思います。
忠実さというのは、日々の生活の中で問われることだからです。
日曜日や教会の中だけのことではなく、私たちが日々歩んでいること自体が、神様の関心だからです。

終わりの日に備えて、主人がいつ帰ってくるのか、ビクビクしながら待つ必要はありません。
その日、私たちの救いは完成され、この世界の回復が完全に実現するからです。