牧師ブログ

「罪からのV字回復」

罪がもたらすもの

ダビデが部下の妻であるバトシェバと性的な関係を持った結果、バトシェバは子供を身ごもった。
本来、イスラエルでは、子供というのは神様から与えられた祝福のしるしである。
しかし、バドシェバが宿った子供は、ダビデからしたら自分が犯した姦淫の罪を裏付けるしるしであり、罪の痕跡である。

ダビデは、自分が犯した姦淫の罪が公に知れ渡ることを恐れた。
それで、この罪の痕跡を消すために、ダビデは殺人を犯すまでに追い詰められていった。

最終的には、ダビデの思惑通りにバトシェバの夫ウリヤを殺すことに成功した。
ただ、このことによって、ダビデは人だけではなく、神様に対しても嘘を突き通さなければならなくなった。
「私は何もやっていないし、何も知らない」という一貫した態度で生きていかなければならなくなった。

おそらくダビデが苦しんだことは、単に姦淫と殺人という死罪に当たる罪を二つも犯してしまったこと以上に、神様までも欺いて生きていかなければならなかったことではなかったか。

このように、罪を隠すために嘘を突き通すことは、自分自身を深く傷つける行為である。
やったにも関わらず、やってないことにすることは、自分を守っているつもりでも、むしろ自分の心をひどく傷つけてしまうのである。
何年、何十年経ったとしても、一生忘れらない出来事として心に刻まれる。

この時のダビデの苦しみが、詩篇の中に残されている。

わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は、夏の日照りにあって衰え果てました。(詩編32:3-4)

ダビデは「絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました」と告白しているが、それほどの痛みを感じなければならなかったのは、主の御手が昼も夜も、一日中、ダビデの上に重くのしかかっていたからである。
特にダビデを苦しめたのは、神様との関係がもたらす霊的な苦しみだった。

罪を認めずに隠し通すことは、自分自身や他人を傷つけるだけではなく、神様と自分との関係を破壊させかねない行為なのである。

ただじゃない罪の赦し

本来、律法に従えば、ダビデは死刑に処せられるべきだったが、神様はダビデに対して死刑を宣告されたわけではなかった。
神様はダビデのもとにナタンという預言者を遣わされた。

神様がナタンを遣わした目的は、ダビデの罪を指摘し、裁きを告げると同時に、ダビデを悔い改めに導き、回復させるためであった。
神様の願いは、罪人が裁かれて死ぬことではなく、罪を悔い改めて生きることにある。

ナタンがダビデに姦淫と殺人の罪を指摘すると、ダビデは「わたしは主に罪を犯した」と言って自分の罪を素直に認めた。
私たちは罪を認めて悔い改めるということについて、キリストによる赦しという恵みを知っているので、そこまで重たい出来事には思わないかもしれない。

しかし、ダビデは十字架を知っていたわけではないし、キリストによる贖いを知って、悔い改めたわけではない。
おそらく、自分が律法によって死の裁きを受けることを覚悟で、罪を告白したのではなかったか。

ダビデが、自分がやったことが死に値することをわかった上で、罪を告白した時、ナタンから「主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」と告げられた。
神様は、真実に神様の前に罪を認めて、悔い改める者に対して、赦しを宣言してくださる。
なぜなら、神様の願いは、罪人が悔い改めて、再び神と共に生きることにあるからである。

ただし、神様はダビデのことを「無償」で赦したわけではなかった。
ナタンはダビデに「このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」とも言われた。
つまり、神様はダビデが犯した罪の代償として、子供の命を取られたのである。

罪の赦しというのは、決してただではない。
罪の赦しは、死という痛みの上に初めて成り立つものである。
ダビデの赦しは、幼子の死という犠牲と痛みの中で与えられたものである。

神様はキリストの死という犠牲と痛みによって、私たちを赦してくださった。
だとしたら、私たちは罪の赦しというものを軽々しく受け取るのではなく、神の死と痛みを通って初めて、赦しの恵みにあずかることができるのである。

V字回復

バトシェバが生んだ子供は、生まれてからどんどんと衰弱していった。
そうするとダビデは、家に引きこもり、その子のために断食を始めた。
ダビデが地面にずっと横たわったままでいるので、家臣たちが心配してダビデを起き上がらせようとしたが、それでもダビデは地面に伏したまま、食事を取ろうともしなかった。

七日目になって、その子はついに息絶えてしまった。
子供が死んだ時、家臣たちはそれをダビデに伝えることを恐れたが、ダビデ自ら家臣たちの様子を見て、子供が死んだことを悟った。
すると、地面から起き上がり、体を清めてから礼拝をささげ、その後に七日ぶりに食事を取った。

この姿を見て、家臣たちはどうして子供が生きている時は泣きながら断食していたのに、子供が亡くなったことを知った瞬間に起き上がって食事を取るのだろうかと、疑問を感じた。
ダビデが断食しながら祈っていたことは、演技だったのだろうか?

普通であれば、罪の罰として子供が死んだとしたら、自分がやったことへの後悔や死んだ子供に対する申し訳なさで、立ち上がることさえできないと思う。
特にダビデの場合は、一国の王という立場にあったので、もし今の時代にあれだけの不祥事を起こせば、辞職は免れず、人生に大ダメージを与える。

ダビデが立ち上がったのは、決して自分の罪や子供の死を軽く考えていたからではない。
ダビデは子供が衰弱していく七日間に、自分の罪を向き合い、神様と向き合ったはずである。
この七日の間、ダビデは死という犠牲と痛みの中を通っていたのである。

悔い改めとは、ただ自分がやったことを、一生後悔し続けることではない。
特に大きな罪や失敗を犯した時というのは、自分に落胆するし、絶望に至ることもある。
罪の重荷によって、再び立ち上がる力を無くしてしまう。

しかし、神様は死の中を通り抜ける真実な悔い改めを通して、私たちに再び立ち上がる力を与えてくださるのである。