牧師ブログ

「人の思いを超える神の計画」

ダビデ殺害計画

旧約聖書に出てくる人物の中で、神様からも人からも愛された人を一人あげるとしたら、おそらくダビデが選ばれるだろう。
ダビデという名前には「愛される者」という意味があるが、ダビデはその名の通り、神様からも、またイスラエル中からも愛された。

しかし、そんな中でも、当時イスラエルの王であったサウルは、ダビデのことを妬み、憎しみ抱いた。
サウルがダビデを妬むようになったきっかけは、イスラエルの女性たちの声である。
イスラエルが戦いに勝利して凱旋すると、女性たちは「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌いながら、サウルやダビデを褒め称えた。
しかし、サウルは王である自分よりもダビデの方がもっと評価されていることに激怒して「あとは王位を与えるだけか」と、ダビデを妬みの目で見るようになった。

そして、その妬みはすぐに殺意へと変わった。
サウルは、ダビデが自分のそばで竪琴を演奏している時、槍で突き刺して殺そうとした。
ダビデはとっさに身をかわし、殺されずに済んだのだが、サウルがダビデに対して殺意を持っていることが明らかになった瞬間だった。

妬みによって生まれた一度目のダビデ殺害計画は失敗に終わったが、サウルはその後もなんとかしてダビデを殺そうと画策した。
サウルが次に考えついた方法は、戦争の中で、ダビデを戦死させることだった。
そのためにサウルは、ダビデを自分の婿として迎え、王に仕える兵士としてダビデを戦場の最前線に送り込もうとした。

しかし、ダビデはことあるごとに戦いに勝利し、サウルの期待に反して、むしろその評価を高めていった。

それでサウルは、やっぱり自分の手でダビデを直接殺そうとして、部下と一緒にダビデを追い回した。
結局、最後までサウルはダビデを殺すことができず、敵国との戦いの中で、最後は自ら命を絶ってその生涯を終えることとなった。

サウルは自分の娘を利用して、ダビデと政略結婚させたり、ダビデを戦場の最前線に送り込んだり、知恵をフル回転させてなんとかダビデを殺そうとしたが、最後までサウルの計画が成功することはなかった。

悪霊チャレンジ

サウルがダビデに殺意を抱いたのは、サウルの上に悪霊が降された時だった。
ただ、サウルは悪霊に支配されたとしても、最後までダビデを殺すことはできなかった。
サウルの死後、ダビデは正式的にイスラエルの王として立てられた。
神様の計画が、イスラエルの上に実現されたのである。

これが意味することは、悪霊がいくら神様にチャレンジしても、神様の計画を妨げることはできないということである。
この世界において、神様は悪霊の働きを許している。
だからと言って、悪霊が神様に代わって、この世界の支配者となることはできない。
神様の計画は、悪霊や人間の罪によって、破棄されることは決してない。
ダビデの命が守られ、イスラエルの王として立てられたことは、全て神様の計画が成し遂げられた結果である。

今、アメリカでは次期大統領を巡って、激しい選挙戦が繰り広げられている。
トランプ氏とバイデン氏は、大統領の座を勝ち取るために、これまでの実績や政策をアピールするだけではなく、相手のイメージを悪くしようといろいろな方法を用いている。
お互いに相手の一挙手一投足を注視して、批判や罵りの言葉を浴びせたり、フェイクニュースを流したりもする。

さすがにサウルのように、殺害という方法でトップの座を勝ち取ることは起こり得ないことだが、ただ、そこで繰り広げられていることの根本は、サウルがやっていたこととほとんど変わりはない。
悪知恵をフル回転させて、自分がトップの座に就こうとする姿には、悪霊に突き動かされている人間の策略がよくあらわれている。

大統領選がどのような決着を見るかはわからないが、神様の計画の前では、人間の策略というのは、なんとも愚かで空しいものである。
イスラエルに対する神様の計画は、サウルを王位から退けて、新たにダビデを王とすることだった。
ダビデは、政治的な策略によって、王にまで登り詰めていったわけではない。
ダビデは神様の計画の中にあり、サウルから命を狙われ続けた十数年の間、神様の完全なセキュリティのもとに置かれていたのである。

結局、神様に挑む悪霊のチャレンジは失敗に終わり、神様の計画が実現したのである。

神が備える一歩一歩

人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。(箴言16:9)

神様の計画は、人間の罪や悪の中でも、着々と進められていく。
人間はいろんな計画を立て、それを実行に移そうとするが、最終的になされることは神様の計画である。

ここで、一つ疑問が生じるかもしれない。
じゃあ人間が計画することに何か意味があるのかと。
結局、神様の計画がなされるとしたら、人間は何も考えずに、その日暮らしで生きていけばいいんじゃないかと。

この疑問に対して、私たちが知っておくべきことが二つある。
一つは、この世界、また私たちの人生において、どこまでが神様の計画であるのか、人間には知り得ないということである。
東日本大震災や新型コロナウイルスの脅威について、神学者の中でも、これは神様が起こしたことだと考える人もいれば、そうではないと考える人もいる。
はっきりとしたことは、誰にもわからないのである。

また、もう一つのことは、私たちが知るべき神様の計画は、すでに聖書を通して明らかにされているということである。
聖書で明らかにされている神様の計画は「救いの計画」である。
この世界については、イエスキリストを通して全被造物を回復し、神の国として完成されること。
また、私たち個人については、聖霊によって主と同じ姿へと造り変えられて、復活の体で天の国で生きるということである。

これが、聖書を通して私たちに明らかにされている神様の計画であり、この救いの計画の中で起こる一つ一つの具体的な事象については、人間には知り得ないのである。

これが意味していることは、神様は私たちが全てを知ることができなくても、全てを理解することができなくても、神様を信頼して生きていくことを願っておられるということである。

私たちに求められていることは、神様が一歩一歩を備えてくださることを信じる信仰である。
聖書は決して、人間が何かを計画することを否定しているわけではない。
神様が一歩一歩を備えてくださるという信仰を持った上で、自分の将来を計画し、それに向けて努力をしていくならば、神様がその一歩一歩を導いてくれるのである。

自分の計画通りにならないこともあるかもしれない。
うまくいかないと落ち込むこともあるかもしれない。
だからと言って、それは失敗なんかではない。
神様を信頼して歩んでいるのであれば、神様が備えてくださっている道を一歩一歩、確かに歩んでいるのである。