真面目さが取り柄だった人々
マタイによる福音書を読み進めていくと21章から、キリストとユダヤの宗教指導者たちの論争が続き、23章に入ると、キリストが宗教指導者たちの中でも、律法学者とファリサイ派の人々について語っている場面が出てきます。
福音書の中には、宗教指導者たちの中でも、特に律法学者とファリサイ派の人々が、キリストから厳しく指摘されている場面がけっこう出てきます。
聖書の中では、彼らは完全に「悪者」として描かれています。
ただし、キリストは彼らのことを100%、完全に否定していたわけではありません。
2、3節でキリストは「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」と言っています。
「モーセの座についている」というのは、彼らが言っていることは、ちゃんと聖書に根拠があるということです。
宗教指導者たちは決して、でたらめなことを言っていたわけではなく、神様がモーセを通してイスラエルの民に与えた律法に基づいて教えていたわけです。
だからキリストは、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさいと言っています。
ここからわかることは、彼らは決して極悪人ではなかったということです。
彼らは律法に忠実であることを目指した人々であり、彼らの考えや言動はすべて律法に基づいていました。
彼らはあくまでも「真面目」だったのです。
聖書を読み、祈り、礼拝を捧げ、律法に従って生活をすることに、とても真剣でした。
当時のユダヤで、律法学者やファリサイ派の人々について、悪く言う人はほとんどいなかったと思います。
おそらく私も、2000年前のユダヤに生きていたら、ファリサイ派の人々に憧れを抱いていたことでしょう。
彼らはユダヤ社会においては、尊敬の眼差しで見られていた人々でした。
キリストが感じていた問題行動
キリストも彼らの真面目さや真剣さをよくわかっていたと思いますが、同時に問題も感じていたようです。
3節から5節の中で、キリストは3つのことを指摘しています。
①「言うだけで、実行しない」(3節)
②「人に対して口で教えるだけで、何も助けようとしない」(4節)
③「すべて人に見せるためにやっている」(5節)
1つ目と2つ目は、どちらも正しいことは知っているけど、行動には移さないということです。
彼らは律法に基づいて、何が正しいことで、何が正しくないことか、よくわかっていました。
ただ、問題は、わかっていてもやらないということ、そしてまた、やるとしても、それが人に見せるためだったという部分です。
この「人に見せるためにやっている」ということについて、キリストは具体的に律法学者やファリサイ派の人々の行動を挙げています。
1つは、聖句の入った小箱を大きくしていたことです。
聖句の入った小箱というのは、テフィリンと言って、祈りの時に身につけるものです。
聖句を書いた紙が入った2つのテフィリンを、1つは心臓に近いという理由で、左腕の内側に縛り、もう1つは顔の額の真ん中に結びつけます。
ユダヤの成人男性は、祈りの時に、このテフィリンをつけて祈ったのです。
また、キリストは彼らが衣服の房を長くしていることも指摘しました。
衣服の房というのは、ユダヤ人男性が身につけていた上着の隅の四隅についていた飾りのことです。
この飾りには、旧約聖書にある613個の戒めに因んで、613個の結び目がありました。
この2つの行為はどちらも、律法で定められていたもので、神様の戒めを忘れることがないように、そして、自分たちが神の民であることをいつも覚えておくためのものでした。
しかし、彼らはテフィリンを目立つように大きくし、服の飾りを地面に着くぐらい、長くしていました。
また、宴会では上座と言って、主人の隣りの席に座ったり、会堂では民衆と向かい合う長老の席に座ったり、広場では挨拶されたり、先生と呼ばれたりすることを好みました。
こういう彼らの行動について、キリストは「すべて人に見せるためにやっている」と指摘したのです。
時に正しさは人間を苦しめる武器になる
律法学者やファリサイ派の人々の問題について、キリストは一つの言葉で表しています。
ここに「高ぶる者」とあるように、キリストは彼らの問題は「高ぶり」にあると感じていました。
そもそも、なぜ人は高ぶってしまうのでしょうか?
その大きな原因は「自分は正しい」と信じ込んでしまうことにあると思います。
そのため、何か信じるものがある人ほど、高ぶりやすいのです。
律法学者やファリサイ派の人々は、何が正しいことであるのかをよくわきまえていました。
また、彼らは周りから自分が正しい人であると思われたいという動機で、律法の戒めも守ることも、人に見せるために行っていました。
彼らにとって、律法は正しさの基準であり、正しいことがすべてでした。
つまり、彼らの生きる基準は「正しさ」にあったということです。
正しいか正しくないかということが、彼らの価値基準でした。
ファリサイ派の人々に限らず、ユダヤの宗教指導者たちは、自分たちこそ神に受け入れられていて、神の国にふさわしいものだという思いがありました。
正しさを基準にして、その基準をクリアしているかどうかで、正しい人間であるのか、神に受け入れられるのかを考えていたのが、律法学者やファリサイ派の人々でした。
このことをよく私は「○か×かの生き方」と言っています。
これは、御言葉という確かな基準を持っているクリスチャンが陥りやすいところでもあります。
正しいことを知っていることは、もちろんいいことであり、必要なことですが、真理も人を判定するための基準に成り下がってしまうと、人を苦しめる武器になっていきます。
自分自身に対して、また誰かに対して、真理という基準を当てはめて、それをクリアしていれば○、そうでなければ×という烙印を押してしまうのです。
ただ、神様は私たちのことを○か×かというようには見ていません。
神様は私たちが正しく生きているかどうかによって、私たちのことを評価しているわけではありません。
そもそも、神様は私たちに対して、○か×か評価を下すようなことはしていません。
神様は私たちが正しく生きられないことを誰よりもよく知っておられます。
だからこそ、キリストが来られたのです。
キリストの時代を生きる今、私たちができることは、正しさを追い求め、正しさに生きるのではなく、神の憐れみに生きることなのです。