婚宴のたとえ
今日分かち合う箇所は、キリストが宗教指導者たちと論争をしている場面です。
この論争の中で、キリストの3つのたとえを語っていますが、その3つ目が今日の箇所です。
3つ目のたとえとしてキリストが語ったのは、婚宴のたとえです。
このたとえの中には、2つの話が出てきます。
1つは、1-10節までで、ここに書かれていることは、もともと婚宴にもともと招待されていた人々が来なかったため、別の人々が婚宴に招かれた話です。
もう1つは、11-14節で、ここには婚宴に来た人の中で1人だけ、礼服を着ていない人がいたという話が書かれています。
このたとえを貫いているテーマは「天の国」です。
2節を見ると「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」とあるように、キリストは宗教指導者たちに「天の国」について伝えるために語ったのが、婚宴のたとえでした。
それでは1つ目の話から見ていきましょう。
ある時、王が王子のために婚宴を催しました。
王は婚宴の客を呼ぶために、家来たちを送りましたが、招待客は誰も婚宴の場に来ようとはしませんでした。
そもそも、婚宴の時間になっても誰も来ていないことが問題のように思うかもしれませんが、ここには当時のユダヤの習慣が関係しています。
ユダヤの結婚式はスタートする時間がちゃんと決まっていなくて、準備が全て終わってから、招待客を予備に行って、式を始めるシステムだったようです。
しかし、はじめに家来たちが呼びに行っても、誰も来ようとはしませんでした。
そうすると王は、今度は別の家来たちを使いに出して、もう一度、婚宴に来るように声をかけました。
それでも人々は、家来たちの誘いを無視して、婚宴に行くことはありませんでした。
それだけではなく、ある人たちは、家来たちを捕まえて、殺してしまいました。
そのため王は怒って、軍隊を送り、家来を殺した人々を滅し、さらには町を焼き払いました。
そして、他の人々を婚宴に招待するために、家来たちを町の大通りに行かせて、誰でもいいから人を連れてくるようにしました。
そうすると、婚宴の場は多くの人々で溢れかえりました。
ここまでが1つのまとまりですが、このたとえに出てくる人を整理しておきましょう。
王は父なる神様、王子はキリスト、もともと婚宴に招待されていたのがユダヤ人です。
そして、王が開いた婚宴というのは、天の国のことです。
つまり、このたとえは旧約時代から新約時代に至るまで、神様の宣教の歴史を表しています。
神様の宣教の歴史
このたとえの中には大きく2つのメッセージがあります。
1つは、婚宴に招かれていた人々であるユダヤ人に対するメッセージです。
ユダヤ人を先祖へと辿っていくと、アブラハムという人物に行き着きます。
神様は堕落した世界を回復させるために、神の国を立て直すために、アブラハムという人を選びました。
このアブラハムを神の国の民として選び、その子孫をイスラエル民族としました。
神様はこのイスラエルを通して、この世界を神の国として回復させる計画をスタートさせました。
それが、旧約聖書の12章から始まるイスラエルの歴史です。
しかし、イスラエルの民は神様に反抗し続けました。
その結果、神の国の民であるはずのイスラエルは、神様から独立して生きていくようになりました。
それでも神様はイスラエルを諦めたわけではありませんでした。
2000年前に、ユダヤという地域にキリストを送り、ご自分のこと、また神の国のことを明らかにしようとしました。
それでも、ほとんどのユダヤ人はキリストを神から遣わされたメシアであると認めることはありませんでした。
それどころか、キリストはユダヤの宗教指導者たちによって捕まえられ、十字架にかけられてしまいました。
その結果、キリストは十字架で殺され、ユダヤ人の中で神のもとに戻っていった人はほとんどいませんでした。
キリストは十字架の死から3日目に復活しますが、ユダヤでイエスをメシアとして信じるクリスチャンに対する大きな迫害が起こったため、多くのユダヤ人は海外へ逃げていきました。
全てがマイナス、マイナスへと進んでいるように見えますが、これらの出来事によってユダヤ人以外の民族にもキリストが伝えられるようになり、各地で神の国の民が生まれていきました。
それによってできたのが、新しいイスラエルである教会です。
これが神様の宣教の歴史であり、アブラハムの時代から今の時代まで、そしてまたこれからも続いていくことです。
ただ人間として存在しているだけで
このように、福音はユダヤ人を通して、異邦人に伝えられ、ユダヤ人よりも異邦人が神の国の民として新たに生まれるようになったのです。
これだけを見ると、ユダヤ人は失敗し、神に見捨てられたように見えます。
しかし、ここでキリストが伝えようとしていることは「ユダヤ人は救いようもない民族だ」とか「あなたたちは失敗作だ」とかいうことではありません。
そうではなく「あなたたちは昔からずっと神の民として招かれていたんですよ」「それは今も変わりのないことで、神様はいつでもあなたたちのことを待っているんですよ」ということです。
神様は今もなお、諦めることなく、忍耐強く、待ち続けておられるのです。
また、もう1つのメッセージは全ての人に対して語られているものです。
もともと婚宴に招かれていた人が全然それに応じなかった時、王は町の大通りにいるあらゆる人を婚宴に招きました。
家来たちは通りにいる人であれば、善人であれ悪人であれ、誰から構わず婚宴に招待しました。
10節にある「善人も悪人も皆集めてきた」という言葉が意味しているのは「条件なしで」ということです。
あえて1つだけ条件があったとしたら、人間であること、人間として存在しているということだけでした。
人々は何の条件もなしに、ただそこにいるというだけで、婚宴に招かれたのです。
家来たちの招きに応じる人は誰でも、婚宴に参加することが許されたのです。
そのように、神様は私たち全ての人々を天の国へと、神の国の民として招いておられます。
善人であるか悪人であるかは関係ありません。
天の国というのは、聖い人、正しい人だけのものではありません。
天の国は私たちの聖さや正しさ、能力や成果が関係するところではありません。
むしろ、聖くないからこそ、正しくないからこそ、神様は私たちに声をかけて、神様と共に生きる天の国へと招いてくださるのです。
このように天の国というのは、全ての人が等しく平等に招かれているところです。
イエスを着た集まり
その続きの話として最後に、11節から14節に書かれているのが、婚宴に参加した人の中でただ1人だけ礼服を着ていない人がいたという話です。
王はその人に、なぜ礼服を着ないで入ってきたのかを尋ねましたが、その人は何も答えませんでした。
それで王は側近の人たちに、その男を外に追い出すように命じました。
なぜ王はせっかく婚宴に来た人を、礼服を着ていないという理由で、そこから追い出してしまったのでしょうか?
大通りで声をかけられて婚宴に集まった人は、突然招かれたわけなので、当然、婚礼の礼服を自分で準備することはできませんでした。
婚礼の場で王から礼服が与えられて、それを着ることができたのです。
しかし、なぜ1人だけは王から与えられた礼服を着ることなく、婚礼に参加していました。
この「礼服」とは何を意味しているのでしょうか?
天の国は確かに誰でも招かれており、その招きに応じるのであれば天の国に参加することができます。
人間としてそこに存在しているだけでよいのですが、ただ、もう1つだけ天の国の民に共通していることがあります。
それは、イエスをメシアとして信じている点にあります。
つまり、イエスを来ている者が天の国の民ということです。
私たちが神の子として招かれるのは、イエス・キリストに結ばれるからであり、これはイエスを着ることです。
自分の聖さや正しさ、能力や成果によって、私たちは選ばれるわけではありません。
この世界では、善人であるか、能力があるか、やる気があるかなど、いろんな基準で私たちは判断され、評価されます。
しかし、神の国の民にとって最も重要なことは、ただイエスを着ているかどうかという1点です。
神様は善人も悪人も関係なく、全ての人を神の国へと招いておられます。
天の国はもはや善人も悪人もありません。
イエス・キリストを着た人間の集まりが天の国であり、そこには、善悪を超えた一致と交わりがあるのです。