2つ目の論争
この箇所は場面としては先週と同じで、キリストが宗教指導者たちと論争をしているところです。
この論争の中で、キリストは3つのたとえ話を語りましたが、今日はその2つ目です。
1つ目のたとえ話は「ぶどう園で働くように命じた二人の息子を持つ人」のたとえで、今日分かち合う2つ目のたとえ話は「ぶどう園を農夫たちに貸して、旅に出た主人」のたとえです。
この2つに共通していることは、どちらもぶどう園が舞台になっているというところです。
ぶどう園を舞台にしたたとえはマタイの20章にもあるように、キリストはよくぶどう園のたとえを語られました。
このぶどう園が何を指しているのかというと、それは、イスラエルです。
ぶどう園はイスラエルの民であり、ぶどう園の主人は神様のことを言っています。
つまり、神様とイスラエルの関係について語っているのが、ぶどう園のたとえです。
今日のたとえ話は、ある家の主人がぶどう園を作り、それを農夫たちに貸して旅に出るところから始まります。
収穫の時が近づくと、主人は農夫たちのところに自分の僕たちを送りました。
しかし、農夫たちはぶどう園にやってきた僕たちを捕まえて、殺してしまいました。
そうすると主人は、前よりももっと多くの僕たちをぶどう園に送りましたが、農夫たちはまたやってきた僕たちを殺してしまいました。
そこで最後に、主人は「自分の息子であれば敬ってくれるだろう」と思い、自分の息子をぶどう園に送りました。
しかし、やはり農夫たちは、その息子にも手をかけて殺してしまいました。
この話を踏まえて、キリストは宗教指導者たちに「ぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」と質問しました。
すると彼らは「僕たちや主人の息子を殺した農夫たち」のことを「悪人」と言いながら、「主人は悪人たちをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は他の農夫たちに貸すに違いない」と答えました。
宗教指導者たちがそう答えたように、多くの人が同じように答えると思います。
農夫たちは悪人であり、犯した罪の報いを受けるべき、裁かれるべきだと。
しかし、実は宗教指導者が「悪人」だと断罪した農夫たちの姿こそ、自分たちのことだったのです。
イスラエルにおいて、宗教指導者たちは主人の僕たちや息子を殺した悪人だと。
主人の不可解な行動
ただ、ここでキリストが宗教指導者たちに伝えようとしていることは、単に「あなたたち宗教指導者は罪人であり、裁きを受けるべきだ!」ということではありません。
もちろん、キリストは彼らの罪を指摘してはいますが、それ以上に大切なメッセージを語っています。
キリストが語ったたとえ話の中で、ひとつ不可解なところがあります。
それは、ぶどう園の主人が取った行動です。
ぶどう園の主人は、最初に農夫たちのもとに送った僕たちが殺された時、どのような行動を取ったでしょうか?
普通であれば、僕たちを殺されたことに対して、農夫たちに何らかの裁きを与えることを考えると思いますが、なんと主人はさらに多くの僕たちをぶどう園に送ったのです。
農夫たちに裁きを与えることもなく、彼らをぶどう園から追い出すこともなく、です。
さらに驚くべきことに、2回目に送った僕たちも農夫たちに殺された時、主人はじゃあ自分の息子を送ろうと考えました。
農夫たちの蛮行を1度だけならず、2度も赦したのです。
これはあまりにも優しすぎるというか、なかなか理解できるものではありません。
多くの僕たちが殺された農夫たちのもとに、自分の息子だとは言え、誰かを送ることはリスクが大きすぎます。
実際に、主人の息子も同じように殺されてしまったのです。
なぜ主人はそのような不可解な行動を取ったのでしょうか?
優しすぎるというか甘やかしすぎのような気もします。
やられ放題で、ぶどう園の主人としては、管理能力に欠けていて不適格のようにも思えます。
しかし、この主人が取った行動こそ、神様のこの世界との関わりを表しています。
主人が遣わした僕たちは預言者、主人の息子は父なる神様の独り子であるキリストのことです。
このたとえを通して、キリストが言っていることは、これまで宗教指導者たちは神様によってイスラエルのもとに遣わされてきた預言者たちを殺してきたし(受け入れなかった)、そして、最後に遣わされてきたキリストをも、これから殺してしまうということです。
実際に、この論争の数日後にキリストは十字架にかけられ、殺されることになります。
宗教指導者たちは自分たちこそ、神様を信じ、忠実に従う神の民だと思っていましたが、イスラエルの中で神様のメッセージを聞きながらも、最後までそれを拒み続けたのは、彼らだったのです。
しかし、主人の息子が殺されたことで、このストーリーは終わりませんでした。
さらなる展開が待ち受けていたのです。
拒まれ続ける痛みの中で
キリストは旧約聖書の詩篇118篇から御言葉を引用しながら、こう語りました。
ここで「家を建てる者」というのは、イスラエルの宗教指導者たちのことで、彼らが捨てた石というのは、キリストのことです。
イスラエルの家を建てるという大切な役割が任されていた宗教指導者たちは、キリストを拒み、捨ててしまいました。
しかし、キリストは捨てられて終わりではありませんでした。
イスラエルに捨てられたキリストは、隅の親石となったのです。
隅の親石というのは、家を建てるときに絶対に必要な土台です。
隅の親石がなければ、家が立つことはありません。
つまり、メシアとしてイスラエルの中に現れたイエス・キリストはイスラエルから捨てられ、殺されてしまいましたが、その後、家を建てるために絶対に必要な土台となったのです。
普通、死というのは終わりを意味し、死んだら全てのことがなくなって、終わるのがこの世の常識です。
しかし、キリストは十字架の死から三日目に、父なる神様によって復活させられました。
42節の終わりに「これは、主がなさったことで 、/わたしたちの目には不思議に見える」とあるように、誰も考えもしなかったことであり、神秘的なことですが、確かに主はそのようになさりました。
死と復活を通して、キリストは新しいイスラエルの土台、すなわち、教会の土台となり、教会を通してこの世を治めておられるのです。
イスラエルの歴史を見れば、神様が諦める場面はいくつもありました。
神様はいろんな方法を通して、ご自身のことをイスラエルに示してきましたが、ことごとく拒まれ続けました。
自身の独り子であるキリストをも、イスラエルは拒み、殺してしまいました。
しかし神様は、何度拒まれたとしても、イスラエルとの関係を拒むことはありませんでした。
神様は何をされても、何度裏切られてもです。
これは、神様が痛みを感じないからではありません。
当然、神様も拒まれ続けることに苦悩し、葛藤したことでしょう。
しかし、事実、その関係を終わらせることはありませんでした。
何度失敗しても、何度倒れても、神様はいつも私たちのことを手を広げて待っていてくださいます。
だからこそ、神様は信頼に値するのです。