宗教指導者 vs キリスト
この箇所は、ユダヤの宗教指導者である祭司長や長老たちが、キリストと論争をしている場面です。
論争の内容は、キリストの権威についてでした。
論争が起こるきっかけとなった出来事が、マタイ21:12-13に書かれています。
神殿の境内には、商売をする人々がいて、彼らは礼拝を捧げに来る人を相手に動物を売ったり、両替をしたりしていました。
それで、キリストは彼らを皆そこから追い出して、さらにはその場所で、自ら人々に教えを語りました。
だからと言って、彼らは無許可で商売をしていたわけではありません。
当時、ユダヤの宗教や政治に関することはすべて、サンヘドリンというユダヤの自治組織が権限を持っていました。
神殿で商売をしていた人々は、このサンヘドリンの許可を得ていました。
神殿の管理はサンヘドリンが行っており、このサンヘドリンのメンバーこそ宗教指導者たちでした。
そのため、彼らは自分たちが許可した人々を追い出し、勝手にそこで教え始めたキリストの言動を問題視したのです。
それで彼らは、キリストに「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」とキリストの権威について問いただしました。
彼らは、神殿の責任者である自分たちを無視するキリストを追求したのです。
これに対してキリストは自分の権威について答えるのではなく、洗礼者ヨハネの話を持ち出しました。
「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも人からのものか。」と。
当時のユダヤでは、ヨハネは多くの人々から神様の権威が与えられた預言者として認められていました。
そのヨハネはキリストのことを「私の後から来られる方は、私よりも力のある方です」と証していました。
そのため、宗教指導者たちはヨハネが預言者であることを受け入れるならば、同時にキリストが神から遣わされたことも受け入れなければなりませんでした。
それで彼らは最終的には「わからない」と答えました。
そうするとキリストも「それなら、何の権威でこのようなことをするのかわたしも言わない」と言って、宗教指導者たちを退けました。
二人の息子のたとえ
普通、自分に悪意を持って攻撃してくる人とは話したくないので、ここで話が終わっても良かったかもしれませんが、キリストの場合は違いました。
キリストの方からさらに、宗教指導者たちに「あなたたちはどう思うか」と問いかけながら「二人の息子のたとえ」を語り始めたのです。
このたとえは、ある二人の息子を持つ父親が、兄と弟にぶどう園で働くようにと命じるところから話が始まります。
兄は最初は「いやだ」と断りましたが、後で考え直してぶどう園に働きに行きました。
それに対して弟の方は、最初は「はい」と言いながらも、実際にはぶどう園には行きませんでした。
この話から「言葉だけではなく、行動することが大切である」という道徳的な教訓について教えられることがありますが、キリストは単に倫理道徳を教えたかったわけではないでしょう。
兄と弟では、行くと言っておきながら行かなかった弟よりも、後で考え直してぶどう園に働きに行った兄の方が、父親の願い通りにしたと言えます。
宗教指導者たちも、この話を聞いて、兄の方が父親の願い通りにしたと答えています。
ただ、宗教指導者たちにとって、兄も弟も両方、不完全に映ったでしょう。
彼らにとって正しいこととは、言葉でも行動でも従うことだからです。
しかし、ここでキリストは「はい」と言いながらもその通りに行動しなかった弟を宗教指導者たちの姿に重ねています。
徴税人や娼婦たちは、初めは嫌だと言いながらも、後で考え直した兄だと言っています。
彼らは言葉においても、行動においても正しい人間だという自負があったでしょう。
自分たちは神様に従う正しくて、立派な人間だ、と。
しかし、キリストは宗教指導者たちに対して「あなたたちは『はい』と言いながらも、実際にはその言葉通りにはしていない」と言っています。
なぜなら、彼らは、神様を信じ、神様に従ってきた自負はあったかもしれませんが、預言者であるヨハネが語った言葉を受け入れようとしなかったからです。
ヨハネは、悔い改めて神様に立ち返るように伝えましたが、それに答えたのは、宗教指導者たちではなく、徴税人や娼婦たちの方だったのです。
それでキリストは、彼らよりも徴税人や娼婦たちの方が、先に神の国に入ると言われたのです。
先の者と後の者
ここでキリストは「あなたたちより先に神の国に入るだろう」と言ったのであり、「あなたたちは神の国に入ることはできない」と言ったわけではありません。
「先に入る」という言葉が意味していることは、先に入る者がいれば、後に入る者もいるということです。
つまり、キリストが伝えていることは…
「何度でも考え直すチャンスはあるよ」
「あなたたちも罪を悔い改めて神様に立ち返るならば、神の国に入ることができるよ」
「神様はあなたたちが悔い改めて、神様に立ち返ることを待っているよ」
ということなのです。
もしこの時キリストが、宗教指導者たちの救いを考えていなかったのであれば、そもそも、二人の息子のたとえを彼らに話す必要はありませんでした。
でも、「あなたたちはどう思うか」と言って、彼らとのやり取りを続けたのは、キリストが彼らの救いを願っておられたからでしょう。
キリストは罪を赦す権威を持った方として、この世に来られました。
誰であっても、このキリストと出会い、キリストの赦しを受け取ることができます。
そうして神様に立ち返ることが、神様の心からの願いであり、誰にでもそのチャンスが与えられているのです。