天使のお告げ
今日の本文は、いきなり天使がマリアのもとに現れて、イエス様の誕生を告げている場面です。
普通、子供が生まれてくるということは喜ばしいことで「おめでとう」と祝福の言葉がかけられる出来事です。
しかし、祝福される側にとって、それをおめでたい出来事だと受け止められないこともあります。
まさに、マリアがそうだったのです。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
もし私たちが、突然そのように告げられたらどうでしょうか?
これらのどの言葉にも悪いニュアンスはないので、私たちにとっては何か良いことを期待させる言葉に聞こえるでしょう。
ところが、マリアがそう聞いた時、戸惑いを感じ、考え込みました。
さらに、その後に告げられた言葉によって、マリアは驚愕することになります。
天使は、マリアが身ごもることになるその男の子は、旧約聖書で預言されていたメシアだと言うのです。
マリアが「どうして、そのようなことがありましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」とすぐさま言い放ったのも当然の反応だったでしょう。
この時のマリアが子供を身ごもることは、実際にかなりまずいことでした。
マリアには、ヨセフといういいなづけがいて、大切な婚約期間を過ごしていたのです。
ユダヤの律法によれば、結婚前に妊娠することは姦淫の罪にあたり、男女ともに石打ちの刑により殺されなければなりませんでした。
今、子供を身ごもることは、マリアとヨセフの命に関わる出来事だったのです。
「恵み」として告げられた知らせ
しかし、天使はマリアの身に起こることについて、それは「恵み」であることを繰り返し告げています。
当然、マリアからしたら、このことを「恵み」として受け入れることは難しかったと思いますが、天使はマリアに「おめでとう、恵まれた方」「あなたは神から恵みをいただいた」と言いながら、この出来事を知らせたのです。
このことから、神様の恵みとは私たちにとってどのようなものであるのか、考えてみたいと思います。
普段私たちが「恵み」という言葉を使うとしたら「恵まれた環境」とか「才能に恵まれている」というように使うと思いますが、この場合、恵みという言葉が意味するところは「整っている」とか「豊富にある」というようなことです。
クリスチャンの間でも、恵みという言葉は、何か良いことが起こった時に使われれることが多いのではないでしょうか。
しかし、神様の恵みというのは、物事がうまくいくという言葉以上の意味があります。
天使の言葉をもう一度聞いてみると「おめでとう、恵まれた方」の後に「主があなたと共におられる」と告げています。
そうです、マリアが恵まれた方だと言えるのは、マリアがメシアを身ごもる環境が整っていたからではありません。
主がマリアと共におられるから、マリアにとって恵みとは言い難い出来事も、神様の恵みだと言うことができるのです。
「恵み」の再考
神様の恵みというのは、物事がうまくいっているか、環境が整っているか、才能が豊かに与えられているかという目に見えるところで測ることのできないものです。
恵みという言葉の反対の意味を考えてみると、神様の恵みについてより深く知ることができると思います。
恵みの反対の言葉は、私なりに考えてみると、自力と言えると思います。
自力の世界は、すべて「自分次第」であり、その責任も結果も自分一人で負わなければならない世界です。
そこは、いつも不安やプレッシャーが溢れ、安らぎがありません。
その行き着く先は、自分を責め、他人を責め、怒りや恨みといった生きづらさを感じる世界です。
これとは反対に、恵みの世界は、自力で生きることを諦めたゆるーい世界です。
もう自分の境遇、能力だけを頼りにすることを諦め、何かしらの希望を神様に見出すことのできる世界です。
もちろん、神様が共にいてくださるからといって、物事がすべてうまくいくわけでもありませんし、納得のいかない出来事も起こります。
しかし、神様が共にいてくださるのであれば、わたしの人生に神様の力や助けがあることを期待して生きていくことができるのです。
恵みの世界、そこはいい意味で「まあいっか」と思える安らぎの世界なのです。