牧師ブログ

○か×かの生き方では幸せになれない

9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカによる福音書18:9-14)

神に祈る二人の人

キリストは、あるたとえ話を通して、神の国に生きるとはどういうことであるのか、神の前にどのように生きるべきかを教えられました。

たとえの中に、二人の人が出てきます。
一人は、律法に厳格なファリサイ派に属する人で、もう一人は、民衆から税金を徴収する徴税人です。
ファリサイ派の人は神殿にやってくると、このように祈りました。
「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」

この祈りに表されていることは、彼の中には、自分は正しく生きているという自負があったということです。
ファリサイ派の人は、罪を犯すことなく、律法を忠実に守りながら、日々生きられていることを感謝しました。

それに対して、徴税人は神殿に来ても、ファリサイ派の人のように祈ることはできませんでした。
彼は自分が正しい人間ではないことを知っていました。
ファリサイ派の人のように、神様の前に何も誇れるものがなかったのです。
それで彼は「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈りました。

キリストは、この二人の姿を対比させながら、ファリサイ派の人と徴税人のうち、義とされたのは徴税人の方だと言われました。
つまり、神の国においては、徴税人の姿こそが、神の前にあるべき姿だということです。

正しい人間アピール

ファリサイ派の人の祈りが、偽りだとは思いません。
確かに、彼は祈りの言葉に表されているように、奪い取ることも、不正を働くことも、姦通を犯すこともなく生きていたのでしょう。
また、実際に週に二度断食し、全収入の十分の一をささげていたのでしょう。
「自分は正しい人間だ」という確固たる自信があったからこそ、そのように祈ることができたのだと思います。

しかし、キリストはこの姿に、ファリサイ派の問題を見ています。
キリストはここで、ファリサイ派の人の「偽り」を問題にしたのではありません。
キリストは「自分は正しい人間だ」という「高ぶる心」を指摘しているのです。

ファリサイ派の人には、自分たちこそ神の国にふさわしい、神に受け入れられている者だという自負がありました。
当時のユダヤ人たちは、天国に入るためには、いくつかの条件があると考えていたと言われています。
すなわち、ユダヤ人であること、男性であること、健康なこと、裕福なこと、宗教的に正しいこと(=律法に従っていること)です。

この中のどれか一つでも欠けたら、その人は天国にふさわしくない、つまり、神には受け入れられないと考えていたのです。
それで、自分は正しい人間であることを神にアピールするかのように、ファリサイ派の人は祈ったのです。

神の前に立つ時

それとは対照的に、徴税人の祈りは、嘆きのような祈りです。
神様に助けを求める祈りです。
彼は自分は正しい人間なんかではない、自分がやっている仕事も不正にまみれている、私は罪人だ、ということを知っているのです。

キリストは、この徴税人のことを「へりくだる者」だと言われました。
おそらく、普段の生活では、徴税人という権力を振りかざして、民衆を苦しめていたのかもしれません。
必要以上の税金を取り立てて、私服を肥やしていたのかもしれません。
でも、そういうことも全部織り込み済みで、キリストは彼らのことを「へりくだる者」だと言っているのです。

神の前というのは、自分の正しさをアピールするところではありません。
神が私たちの正しさを見て、評価しているわけではないからです。
そもそも、聖書にもあるように、正しい人は一人もいません。

神の前に立つ時、私たちは自分を飾る必要も、偽る必要もありません。
徴税人のように、ありのままの自分で進み出ればよいのです。
私たちが真実な姿で神の前に立つ時、神との本当の関わりがスタートするのです。

○でも×でもない生き方

それでは、なぜファリサイ派の人は高ぶる者と言われるようになってしまったのでしょうか?
最も大きな要因として考えられることは、彼らが基準に従って生きていたことです。

ファリサイ派がいつも意識していたことは、律法です。
律法を基準にして、その基準を満たしているかどうかで、神に受け入れられるか、正しい人間か、人間の振り分けを行っていました。
私はこれをよく「○か×かの生き方」と言っていますが、そのようにある基準を境にして、○か×かを判断する生き方が、ファリサイ派が抱えていた問題でした。

そのように、人間という存在自体に対して「○か×か」の判決を下すことは、不幸と崩壊の始まりです。
本文の9節に「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」とあるように、自分は正しい人間だと思うことは、他人を見下すという見方を生み出します。
自分は正しい人間だという見方は、本来、対等であるはずの人間の尊厳に対する見方を歪めてしまうのです。

自分が自分のことを見て、また誰かのことを見て、正しさを基準にして○か×かの判定を下すことには、あまり意味がありません。
神様も私たちに対して、あなたは○、あなたは×というように見てはいません。
神様は、私たちのことを正しさやある境を基準にして、見ているのではありません。
イエス・キリストを通して、私たちのことを見ておられるのです。

つまり、神様の目には、全ての人がキリストにあって美しく、素晴らしい存在です。
そこには○も×もなく、ただ、神様の愛だけが存在しているのです。