たとえ話の結論
ある町に、神を畏れず、また、人を人とも思わない裁判官がいました。
その裁判官のもとに、ひとりのやもめが何度も訪ねて来て、裁判をして欲しいと頼みましたが、裁判官は取り合おうとしませんでした。
しかし、何度もやって来てうるさいので、ついに裁判官は、彼女のために裁判をすることを決めました。
これは、キリストが弟子たちに向けて語ったたとえ話です。
この中でやもめが裁判で何を訴えたかったのか、あるいは裁判の結果がどうだったのか、ここでは特に語られていません。
重要なことは、神を畏れず、人を人とも思わない裁判官が、それでもやもめが何度も執拗に求めてくるので、彼女の要求を受け入れて、裁判をやることに決めた、という部分です。
つまり、たとえ不正な裁判官であったとしても、執拗に諦めずに要求し続ければ、それに応えてくれる、まして神は…、ということです。
このたとえ話の結論は、7節と8節にあります。
「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。…」
ここで「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」というのは、神を呼び求める信仰者のことです。
そのように神を呼び求める信仰者を神様がいつまでも放っておくことはなく、必ず神様は裁きを行い、彼らを守ってくださいます。
つまり、キリストがこのたとえで伝えようとしたことは、神様は信仰者のために必ず裁きを行われるということです。
何のための裁きなのか?
「裁き」という言葉は、少しビクッとする言葉ですが、聖書は確かに神様のことを「裁きを行われる方(裁き主)」だと言っています。
ただ、神様の裁きについて考える時、私たちが一般的にイメージする裁きとはかなり異なることに気をつけなければなりません。
一つは、何のために裁きを行うのか(目的)ということ、また、いつ裁きが行われるのか(時期)ということです。
普通、裁きというと、法を犯したものに対して、罰が下されることを思い浮かべると思います。
なので、裁きという言葉からまず連想することは、罰が与えられること、刑罰という言葉です。
最近は、インターネットでも私的な「裁き」が横行しています。
特に有名人の問題となる言動に対して、その人を裁く言葉が次々と浴びせられます。
私たちは裁かれることは嫌いですが、正義の名の下に、誰かを裁くことは大好きです。
しかし、神様の裁きというのは、私たち人間界の裁きとは異なります。
神様は刑罰を与えて、責任を取らせるために裁くのではありません。
むしろ、守るために裁きを行われる方だと、聖書は言っています。
7節に「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」とあります。
裁きを行うのは「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのため」、すなわち信仰者のためなのです。
神様が裁きを行うのは、罰を与えて懲らしめたいからではなく、信仰者を守るためなのです。
いつ裁きが行われるのか?
マタイによる福音書の13章に「毒麦のたとえ」が出てきます。
この話は、神の国をたとえるためにキリストが語ったものです。
ある人が良い畑に種を蒔きましたが、眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いていきました。
しばらくすると、良い麦と一緒に毒麦も成長して、芽を出しました。
それを見た僕たちは毒麦を抜いておこうかと主人に提案しましたが、主人は毒麦と一緒に良い麦まで抜いてしまうから、収穫する時までそのままにしておくようにと命じました。
この話はまさに神の国における裁きに関する話です。
主人は毒麦があることをわかっていても、それをすぐに抜くことなく、最後の時まで育つようにしておきました。
この主人のように、神様もこの世界に毒麦があったとしても、見つけ次第、悪を引き抜いて裁きを与えるのではありません。
収穫の時、キリストの再臨の時まで待っておられます。
つまり、神様による裁きは、キリストが再臨する時に行われるのです。
私たちは今、ここで裁きが行われることを求めるかもしれませんが、神様の裁きはキリストが再臨する時まで待たなければなりません。
だからこそ、キリストは1節で「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と言っているのです。
裁きはあくまでも神様の仕事であり、私たちの手にあるものではありません。
私たちが神様に祈ることによって、私たちは直接誰かに裁きを下すことから守られます。
私たちを守るために、神様は終わりの時に裁きを行われる方なのです。