ぶどう園のたとえ
これはキリストが語った「ぶどう園と農夫」のたとえ話です。
ぶどう園の主人がいて、主人は自分が作ったぶどう園を農夫たちに貸して、長い旅に出ました。
収穫の季節が来ると、主人は収穫を納めさせるために、自分の僕をぶどう園に送りました。
しかし、農夫たちはやってきた僕を袋叩きにして、収穫したぶどうを渡すことなく、僕を送り返しました。
その後、これと全く同じことが二度、起こりました。
それで主人は考えました。
自分の息子であれば彼らも敬ってくれるだろうと思い、四度目に、我が息子をぶどう園に送りました。
しかし、農夫たちはぶどう園を自分たちのものにしようと考え、主人の跡取りとなる息子を殺してしまいました。
このたとえの中で、ぶどう園の主人は、父なる神様、ぶどう園はイスラエル民族、ぶどう園で働いていた農夫たちはイスラエルの指導者たち、ぶどう園に送られた僕は預言者たち、そして、最後にぶどう園に送られた息子はキリストのことをそれぞれ指しています。
つまり、この話は旧約聖書の創世記から、キリストが十字架で殺されるまでの、イスラエル民族の大まかな歴史について語られています。
父なる神様はアブラハムという一人の人物を選び、そこからイスラエルという民族が始まりました。
その後、神様はご自分の存在を示すために、イスラエルの中に繰り返し、預言者を送り、民に語りかけました。
しかし、イスラエルの指導者たちは耳を貸さず、預言者たちを拒みました。
そして、最終的に送られてきた神の独り子であるキリストを殺してしまいました。
これが旧約時代から、キリストが来られるまでのイスラエルの大まかな歴史ですが、このことを踏まえて、ここにどんなメッセージが隠されているのかを考えてみましょう。
神様の忍耐
イスラエルの歴史を踏まえて、キリストが最後に語った結論部分はこうです。
「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」
これはつまり、神様が直接ぶどう園に出向き、イスラエルの指導者たちを殺し、イスラエル民族を諦めるということです。
しかし、キリストが殺された後の歴史はそのようになったでしょうか?
この結論部分は、実際に起こった歴史とは異なります。
そうです、神様は仕返しのようにして、イスラエルの指導者たちを殺したりすることはありませんでした。
このたとえを通して、一貫して語られていることがあります。
それは、決してイスラエルを見捨てることもなく、諦めることもない、神様の忍耐の愛です。
主人(神様)の側には、農夫たち(=イスラエルの指導者たち)との契約を破棄し、彼らをそこから追い出すチャンスは幾度となくありました。
普通の感覚なら、一度、ぶどう園に送った僕(=預言者)が拒否され、追い返されてきたとすれば、その時点で直接介入しても不思議ではありません。
それにもかかわらず、主人はもう一度、またもう一度と自分の僕をぶどう園に送り、最後には自分の息子までぶどう園に送られたのです。
相手との関係を一方的に終わらせる力を持っていながらも、主人はその力を行使することはありませんでした。
いくら馬鹿にされようが、侮辱されようが、痛めつけられようが、それでもなお忍耐強く呼び掛け続けました。
これこそ、神様がご自分の民であるイスラエルにしてくださったことです。
全能の神様の本当の力
よく神様のことを全知全能であり、なんでもできる力があると形容します。
福音書の中でキリストが「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われたように、神様には何でもできるのです。
しかし、イスラエル民族やこの世界の歴史を見れば、神様はその力を全て行使しているわけではありません。
つまり、神様はあえて負けているのです。
あえて譲っているのです。
これが神様のこの世との関わり方です。
これはキリストの生涯を見てもよくわかることです。
キリストはご自分が殺されることをわかっていましたし、神の子としてそれに対抗するための力を持っていました。
十字架にかけられた時、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」と言われましたが、十字架から降り、自分を救う力を発揮することはありませんでした。
キリストは弟子のユダに裏切られることを知っていながら「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」とユダに言いました。
このように、あえて負ける、あえて譲るということによって、神様の歴史は築かれてきたのです。
この世に不条理があるのは、神様が存在していないからでも、無力だからでもありません。
神様は、それだけこの世界とそこに住む私たちのことを尊重してくださっているのです。
そこで問われているのは「じゃあ、私たちはどうするべきか?」ということなのです。